top of page

毒虫

 幼友達のTは生来貧弱で、長じても気弱な性質であったがそれでも何とか働き口を探して月給取りになり、そのうち女房をもらって慎ましやかに生きてはいるようであった。
 しかしその薄弱な、かげろうのような気質は少しずつ精神を蝕んでいったらしく、ある時彼は気うつになり、ぶつぶつと変なことを言うようになった。彼の女房や同僚が療養をいくら勧めても聞きはせず、とうとう月給取りの仕事もできなくなって、狭い借家の一部屋に閉じこもることが増えてきた。当然仕事はクビである。
 不思議なもので、Tはそうなってからの方が憑き物が落ちたように明るくなり、やがて閉じこもっていた部屋は出てしまって、飯もよく食べるようになったのだという。
 女房同士の付き合いもあるので、自分の女房を通して、Tが会いたがっていると伝えられたのは五月間近のことであった。
 場所は、以前Tとよく会っていた喫茶店を指定した。ついでの用事もあったものだから、私は洋装で出かけることにした。
「久しいね」
「心配をかけたね。おれがおかしくなったと聞いていたんじゃないのかい」
 Tは存外平気そうな顔で、と言っても生来陰湿な表情ばかりしていた彼の平気そうな顔など私は初めて見たのだが、ともかく明るい表情で私と対峙した。
 女房からTはこの所随分いいと聞いていたし、何より表情の明るいのに私はいくらか安心した。
 だから冗談交じりに「ああ、聞いていたよ」と肯定することにした。
 Tは「そうだろう」と軽く受け流すと、
「おれの頭の中を毒虫が這い回っていたのだよ。だから生来の頭痛持ちで、貧弱であったのだ。そのことにようやく気付いた」
 当然のごとくそう言い切った。私は彼が冗談でも言っているのか何かの比喩であるかだろうと思って「毒虫か、それは面白い」と請け合った。冗談と取られたことに少し立腹したらしく、Tはまだ続ける。
「疑うのか。まあ、信じられまい。しかしおれはその姿をきちんと、脳裏に見たのだ。頭の中を這いまわっているのだから、脳裏に見るのは当たり前だろう。ほら、このように真っ黒な、つるつるした体に、六本の足の生えたやつだ」
  Tは白黒の棒縞の着物から帳面を取り出すと、スケッチを描いて見せてくれる。ムカデのその一節に、毛の生えた足の六本生えている。その内の二本はほかの四本に比べて太い。これらは前足なのだとTは自慢げに言う。
 言葉を返せない私がその、やけに微細なスケッチを彼へ押し戻すと、Tは朗らかな顔で笑った。
「それでね。おれはとうとう見つけたのだ。幼い頃からずっと頭に飼っていたこいつを、やっつけてしまう方法を。しかし普通のやり方じゃ物足りない。たっぷり栄養を与えて。ぶくぶくと太り切ったところをやっつけてやるのだ」
 Tは喜色に満ちているが、私は笑えなかった。いくらか真面目な表情をして、労わるように私は言った。
「きみは疲れているのだ。しばらく田舎に戻って、ゆっくりしたらどうだ。おふくろさんはまだ元気だろう」
「きみも、おれが幻覚を見ているというのだね」
 Tはやや失望したような表情を見せたが、反面その失望はあらかじめ予想していたと見えて、すぐにまた元の笑顔を見せた。
「こいつはね。こいつは、幼い頃から頭の中を這い回っていたのだ」
「君のそれは、気うつと頭痛というやつだ。毒虫なんかではないよ」
「しかしね。おれはとうとう、こいつをやっつけてしまう方法を見つけたのだよ」
 Tはそれから、私の言葉には答えず、ただ見たこともないようなすごい笑顔で、嬉しそうに、ぶつぶつと独り言を呟くばかりであった。
 私は、届きもしない辞意を告げて喫茶店を立ち去った。
 
 やがて届いたTの訃報は、ある意味予想できていたものであった。ピストルで自らの頭を打ちぬいたのだ。
 葬式の済んだ後、未亡人となったTの女房の話したことが、自分の女房を通して伝わってきた。
 彼の自死に使われたピストルの横脇には、真っ黒な、つるつるした体に、六本の足の生えた虫が一匹横たわって死んでいたのだという。
 無論、女の噂話なので、どこまで本当であるかなど分からない。

​ 私も、彼が狂気であったことを疑うつもりはない。

bottom of page