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​熱の箱とラズベリームース

 昼間の太陽を真正面からまともに受けた安アパートの部屋は、夕方には熱の箱となる。昼寝もできない暑さのなかでただ寝転んでいた男は、まとわりつくような汗と熱気を無理に振り払うと畳から身を起こした。夏も初めだろうに蝉の声は疲れきって聞こえる。あるいは疲れているのは自分の方かもしれない。男は机に向かうと大きなため息をついてペンを取る。原稿用紙にぼたりと汗が落ちる。ぶうんという扇風機の音と共に、熱風が膝を撫で、風鈴のちりんという音が空々しく響く。窓の外でそろそろ落ちたそうにしている太陽がオレンジの西日を部屋に投げ掛けていた。
「先生、エアコンをお持ちでないの」
 闖入者が甘ったるい声と共に現れたのは熱の箱がすっかり落ち着きを取り戻し、夜風を部屋に招き入れるようになってからである。夏の暑さなどを感じさせない完璧な化粧と涼しい顔で、女は挨拶もなしにこの箱へ上がり込んだ。
「文句を言うな」
「あら」
 昼の部屋を知らぬ女に男が振り返りもせずそう吐き捨てると、女の方でも機嫌を悪くすることもなくそれだけ返す。どころか、少し浮わついたような調子ですらあった。
「紅茶はあるの」
「ない」
「コーヒーは」
「切らしている」
「お皿を借りるわね。あら、フォークが少し大きいわ」
「おい——」
 古い安アパートの八畳間だ。狭い台所もすぐそこにある。とは言え女があんまり勝手にガサガサ漁るので男がとうとう振り返ったら、してやったりとでもいうように女はいたずらっぽく笑い、男は盛大にため息を吐いた。
 元来、浮気者の女である。名前は知らない。年も知らなければ居所も知らない。だが浮気者であるがゆえに奔放で、いつもこうしてふらっと現れては媚態を見せて去っていく。それだけを男は知っている。そして女の嬉しそうな顔を、男は本気で叱れないことも、この女は本能で知っているのだ。 
「おいしいのよ」
 女はあどけないような顔で、しかしどこかうっとりと笑いかけた。ケーキ、らしい。どこかから見繕った安っぽい皿に、ごてごての甘味を乗せるとゆっくり口に運んでいく。不似合いだ。しばらくその所作を眺めていた男はようやくはっとしてそれだけ思うと息を吐いた。
「……せめて座れ」
「許してくれるの」
「君を許したわけではない。しかし行儀が悪い」
「やさしいのね」
 ラズベリーとチョコレートだか何だかのケーキらしい。少し大きめのハート型だ。土台の焦げ色のスポンジの上には濃い桃色のムースらしいものが乗り、その上にはゼリーのような、毒々しい赤紫の何かが乗っている。金粉でも撒いてあるのか、安い蛍光灯にきらきら反射した。
 その濃い色の何かを、女は古い畳の上で口に運んでいる。げえ、と男は思った。
「随分暑苦しいものを食う」
「そうかしら」
「そうだ。アイスですらない。暑くないのか」
「さっきまで、暑すぎて寒いくらいの場所にいたのよ」
 女はフォークを置く。おかしそうな、慈しむような顔を男に向けた。しかしその瞳は、男を見るには随分遠くを見ているようでもあった。
「鞄だの財布だの時計だの服だの、あんなにあってどうするのかしら。私の体はひとつだわ。ああ、暑苦しかった」
「……」
「この部屋は涼しいわね」
 男自身のことを言って挑発しているのだと容易に悟った。この少女のような女は、男の熱を知っていて、それを表に出さない男をからかっている。男は挑発を知りながらもそっぽを向く。窓の外は星が瞬き始めていて、昼とは違う虫が鳴いている。
「……何も知らんだろう、君は」
「怒ったの?」
 女は畳の上をすべるようにすり寄ってくる。そうして膝立ちのまま、白い腕を男に巻き付け顔を寄せた。一丁前の女の所作をしながら、少女のごとく嬉しそうに笑っているのが窓に映った。
 男は腕を振りほどくことなく、しかし女の方を向くこともなく一言だけこぼした。
「この部屋は本当は暑いんだ」
「そうね」
 女はもう一度男を抱きすくめると、「帰るわ」とそれだけ言って立ち上がる。男は何も返さない。やがてばたんと玄関の開いて閉まる音がして、続けてカンカンカンと金属の階段を降りる音がした。
 熱の箱の中には、空の皿と男だけが残されていた。

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