紋白蝶の嘘と、恋をした猫
小雨は長引かずにあっさりと上がり、大地へは潤いを与えただけで済んだようであった。
ところどころ桜の植えてある、入り組んだ住宅街の路地。黒猫はブロック塀に開いた隙間から外へ出ると、体を伸ばしてぶるんと震わせた。
「ああ、いい天気になった」
アスファルトへは春の陽光が照っており、水たまりなども見当たらない。春の天気は変わりやすいが、それにしてもしかし先までの雨が嘘のようだ。
日向ぼっこに適した場所を見つけた黒猫は、首元に巻いた赤いベルトの鈴をちりんと鳴らし、香箱座りにまどろみ始めた。
黒猫は老いと若さの中間くらいで、生意気そうな目元をした、毛づやの良い雄猫である。
彼が散りかかる桜を避けもせず、なるがままにさせていると、その時一陣の風が吹いた。
「きゃあ!」
風の中に紛れた悲鳴に黒猫はうっすらと片目を開ける。
天より差す穏やかな陽光、空に向かって伸びる桜の木から零れ行く花弁。
その花弁にひとひら白い、ふわふわしたものが混じっている。
――来たな。黒猫は心の奥底で彼女の到来を待ち望みながらも、もう一度目を瞑って素知らぬ顔をしてみせる。
ふわふわしたものはやがて止んだ風からゆっくり逸れて、黒猫の鼻先へと停まった。
「あらごめんなさい! ……まあ! まさかあなたにぶつかるなんて!」
「おやおや。じゃじゃ馬の紋白蝶ではないか」
「何ですって!」
まるで面倒がってすらいるように、黒猫はため息をついて見せる。
つがいを探す、行き遅れの紋白蝶。貰い手の見つからないのは、その快活すぎるベールに隠した、乙女の清純のためだろうと黒猫は知っていた。
紋白蝶はきゃんきゃん叫ぶ。
「全く! 急いでいるというのにとんだ災難だわ」
「そうかい、そうかい。気の毒だな。……相変わらず、いい相手は見つからないのか」
ぷりぷり怒る紋白蝶をいなして黒猫は問いかける。翔び上がった紋白蝶の翅が陽光に透けた。
「ええ。ええそうね……、何だかうまくいっても、やっぱりだめになるの。おかしいわね」
「雄にも選ぶ権利があるのだろう」
「まあ。憎らしい。……おあいにく様。私はこれでも結構もてるのよ」
ふふん、と自慢げな蝶に黒猫は「しかし行き遅れているじゃないか」の言葉を飲み込んだ。
紋白蝶のその、顔のほとんどを占める瞳に、恋する乙女を認めた。
「今日なんてね。二匹の雄が追いかけてきてくれたのよ。一匹はまだ若くて、一匹は年老いていたわ。若い方は積極的に甘い蜜のある場所まで誘ってくれたし、老いた方はそれをじっと見ていただけだったけれど、雨が降った時にそっと葉の下まで誘導してくれたの。私、ついそのご老人にほだされそうになってしまったわ。『私を選んでくれるとは思っていないけれど、君さえよければ』なんて控えめに、それでも若い子の教えてくれたのよりも甘い甘い蜜のある場所へ連れて行ってくれたものだから私はつい――」
「きざだねえ」
黒猫は続けてくっくと苦笑し、欠伸をくれてやる。
「随分きざだ。蝶の雄ってのはそんなものかい」
うっとりと語っていた幻想を打ち砕かれ、紋白蝶は何だか急に恥ずかしくなった。しかし負けを認めたくないものだから、悔し紛れにひらひら飛んで皮肉を一つお見舞いする。
「そうね、少なくともあなたのように、そんな眠そうな顔はしていなかったわよ」
「眠そうな雄はだめかい」
「ええだめよ。てんでだめ。あなたのように、人間に媚を売って、飼われているようなのはだめだわ」
「言うようになったもんだ。しかしそんなに人気の愛らしい蝶が、どうして売れ残っているのだい。そろそろ子孫を成さねばならんだろう。老いたのとはどうなった」
若いの老いたのとはいっても、たかが二週間もない虫の命、黒猫から見ればさほど差異なき二匹である。
だがお転婆な紋白蝶にとっては大違いの二匹なのだろう。紋白蝶は黙りこくったまま、恋の戸惑いと恥じらいを表すように、うろうろと黒猫の周りを飛んでいる。
黒猫は心配半分と、からかい半分とで問いかけた。
「まさか。逃げてきたのじゃあるまいね。君のようなお転婆者を気に入ってくれた、先の短いかわいそうな紳士を」
「……」
「おやおや。威勢がなくなった」
「分かっているの。分かっているのよ、そんなのは……」
黒猫は先までの小雨を思い返す。
桜の花はまだ風に吹かれて舞い踊っている。
「いつもこうなの。あなたの言った通りなのよ。だから今も売れ残っているのよ。いざとなると恥ずかしくて、――もう子供がいるのなんて嘘までついて。ここまで逃げて来ちゃったわ」
「勇敢な嘘だなあ」
「ええ私は勇敢だもの。嘘つきだもの」
黒猫は笑う。笑った向こうに、陽光に透ける紋白蝶を見る。紋白蝶はじっと黒猫を見ている。
押し黙る二匹の後ろには桜が舞っている。――ああ、彼女が桜の花弁であればよかった。
そろそろ潮時だ。少し面白くないが、仕方がないだろう。
「おおい。そんなわけで、嘘だそうだよ」
「え――」
紋白蝶が一瞬、血の気の引いたような表情を見せたのを、黒猫は目を瞑ってやり過ごした。
桜の花に交じって、やや老いた雄の紋白蝶がひらひらと舞い飛んできた。
「それを聞いて、安心したよ」
「こいつはずいぶんと照れているんだ。でも心の底ではあんたに惚れているんだよ。のろけを聞くのは飽きてしまった、引き取ってくれやしないか」
「喜んで」
雄の紋白蝶は礼をするように、猫の眼前を上下する。
雌の紋白蝶が割って入った。
「待って。どうしてここが――、それに私、あなたに嘘をついたのに」
「そんなことだろうと思っていたよ。じじいには、若い子の嘘なんて可愛いものさ。君が黒猫さんのところへ入り浸っているというのも噂で聞いていたから、場所もすぐわかった」
全てを受け入れるような表情の彼に、初めは戸惑っていた彼女も、ようよう決心づいたようだった。
これでいい。うまく片付いたのだと黒猫は、最後に憎まれ口をくれてやる。
「よかったな。さあ、どこへでも飛んでいきなよ。うるさいのが居なくなってちょうどいい」
桜吹雪の中へ紛れていく蝶のつがいから目をそらして、黒猫はアスファルトへ座り直す。
「私。私、あなたのこと、案外嫌いじゃなかったわよ」
ああ、俺もだ。そう言ってしまえば、きっと彼女はまた彼からひらひら飛んで逃げ出すだろう。
黒猫は彼らの表情を決して見ないよう固く目を閉じる。
「それはどうも」
陽光を十二分に受けたアスファルトは大層暖かい。
少しずつ、少しずつ、黒猫はまどろみ始めていた。
こちらの短編はお題をお借りして書きました。
3つの単語お題った― https://shindanmaker.com/772443
お題:「商人」「蛍」「蝶々」 →「蝶々」のみお借りしております。