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花それぞれ

 花に混じり氷のような雨の降る、と詠んだ男は満足そうに春雨の窓を見やると温かい珈琲に口をつけた。
 桜は今の風雨でまさに散り始めんとする頃。気障な情緒者たる男は満足げにジャズを鳴らし、手には文庫本を携え、暖炉では充分火が燃えているというのに寒い窓際のチェアに腰かけている。
 初老を過ぎた男は知識階級を自負していた。
「はあ、寒い寒い」
 だからこそ、大きな悲嘆と共に玄関の扉の開き、バサバサと傘を畳む音がしたことで男の満足げな表情は不快に一転した。買い物から帰った妻は夫の不快にも気づかずに小走りの足音をさせながら彼のいる居間へと滑り込み、はたまた読書机の上へどすんと買い物籠を置くと、暖炉に手をかざして夫に挨拶する。
「ただいま戻りましたよ。あらそんな、窓際なんて寒いでしょうに。暖炉のそばにいらっしゃいな」
 そして妻はまた、はあ寒い寒い、を繰り返した。気障な情緒者たる男は不満げに「君ね」と呟く。
「君はね。情緒というものをわかっていないのではないかね」
「情緒。情緒ですって。こうも寒ければそんなもの感じる暇もないわ」
「僕はね。今、氷のような雨の降るという歌を詠んだところなんだ。それを君」
「ええ、ええ。確かに氷のような雨だったわ。お買い物も大変」
 妻の無理解に男はますます不機嫌になる。
 つまるところ男は文学的な空想の中に、生活や現実を持ち込みたくなかったのである。
(何と情緒のないことか――)
 不機嫌のためにとうとう黙り込んでしまった男に構わず、手の平だけを温め切った妻はまた重そうな買い物かごを台所まで抱えていく。後姿を見つめている男はむすっとした表情で再び窓の外に目を遣って、現実主義の妻に中断された空想の世界へ旅立とうとした。

「お夕飯よ」
「……ああ」
 妻のご機嫌な鼻歌のおかげで、とうとう文学的な空想へ浸ることのできなかった男は変わらずむすっとしたままに立ち上がる。
 もう一言。もう一言、苦言を呈してやらねば気が済まない。文句を考えながら居間と続きの食堂へ向かい、口を開こうとした男は思わずはっと目の方を見開いた。
 鰆の焼いたの。ゴボウと筍の煮物。
「菜の花か」
 鮮やかなのは深い緑色と卵の黄身の浮かぶスープ。
「そうよ。春だもの。旬のものを食べなくちゃ」
 何でもないと言うように妻は笑う。妻の主戦場たる卓上には、春が並んでいる。
(ああ――)
「さあ、早く食べましょ」
 冷めちゃうわと笑っている彼女に男は笑みを返す。
 僕の妻は、何と情緒のわかる女性であるだろう。

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