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苔むした椅子

 昔むかし、ある小さな国で男が森を散歩していると、女の子が一人で泣いているのに行き会いました。
「君はいったいどこから来たんだい。どうして泣いているの」
「おうちが分からなくなってしまったの」
「そうか。では私が送ってあげよう」
 男は親切でしたので、女の子の手を引いて送ってあげようと考えました。
 女の子は小さな手を男にゆだね素直に歩いておりますが、時折しゃくりあげるのがかわいそうで、男は一つおとぎ話をすることにいたしました。
「昔々、この辺りには大変綺麗で賢い女王が住んでいた。女王は草花を愛し、人々を愛した。その立派な人柄と愛で、森の精の加護を受けた彼女は他国の侵略も許さず、今でもどこかに佇んで、この国を見守っているという話さ。だからきっと、君もおうちに帰れるよ」
 女の子は元気を取り戻したようににっこり笑いました。
 しかし、実のところ男は先ほどから少し困っておりました。勝手知ったる森の中ですのに、どれだけ進んでも街道に出ないのです。
 はて、どうしてだろう。道を間違えているはずもないのに。そう考えていた矢先、急に開けた場所に出て男は驚きました。
「ここは古城の跡地でないか」
 いつの間にこんなところへ進んでいたのでしょう。かつて女王の住んでいたという古城の跡地へ出たのです。
 そこは森林の中にぽっかり空いた空間で、陽の光をたっぷり受けた草花が思い思いに、しかし調和をもって咲き誇っています。
 役目を終えた崩れかけの石垣も今は休息するように、緑にその体を任せています。
 真ん中には一つ、大層立派な造りの古びた椅子が置かれていました。椅子もまるで衣のように緑色の蔦や苔を纏っています。
「これはどうしたことだろう」
 男がそう呟くと、女の子は男の手を離し駆け出しました。
「ありがとう」
 男を見てそう言ったのは、真ん中の椅子に座り高貴に笑うのは、美しく長い白髪に上品な赤を身に纏った老女王。
 彼女は男に微笑みかけると、煙か白昼夢でもあるようにあっさりと消え、代わりにそこには薔薇の花が一輪咲いているのでした。

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