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蝉の来ぬ夏

 未だに蝉が鳴かぬから、夏が来ぬのだと先生は言った。
「先生は夏に来てほしいのですか」
「そうだとも。医者も言っていただろう」
「先生」
「ああ、蝉が早く来んかなあ。夏だろう、夏。いい季節じゃないか、死ぬには過ぎた明るさで」
(……)
 弟子は安堵と罪悪のため息を吐く。
 待ち遠しがる先生は知らないのだ。ここに割れんばかりの蝉の大音声のしないのは、弟子が彼をなるたけ蝉のない静かなサナトリウムへ連れ出したせいであることを。
「夏は越えられないでしょうね」
 ヤブ医者の言葉。ほんとうは、とうに夏は来ているのだ。ただ、いくら気丈な先生も、もう映らぬ両の瞳で窓の外の燦々たる太陽や、青空をつかんとする緑を見ることはないから。
 だからここに、この部屋に夏は来ないだけのこと。
 夏さえ遠ざければ、先生は死なない。
「……いったい君は、いくつまで生きさせる気かね」
 静かな部屋に響くしわがれた声にどきりとした。
 振り返ればもう何も映らないはずの先生の目が、何もかもを見透かすようにこちらを見つめている。
「先生」
 それ以上の言葉を持たぬ弟子は、遠くで蝉の声を聞いた気がした。

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