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白昼夢

 それでどうなったんだ、と悟は笑いながら聞いた。
 夕方の喫茶店。昔からやっているここは小学生の頃には「大人のたまり場」として半ば憧れを持っていたが、今となってはただの田舎の喫茶店だ。
 きっと進太郎から見れば田舎臭く見えるのだろう。悟はそれを分かっているが進太郎は「懐かしいから」との強い希望で再会の場をここに指定した。
(そういうところが、都会人になったということなんだけどな)
 昔と同じオレンジの日が窓から差し込んで二人を照らしている。
「何だお前、あまり信じてないだろう」
 遠くの都会から帰省したばかりの進太郎は苦笑を返す。実家で酒屋を継いだ悟と年は同じだというのに、進太郎の纏う雰囲気はやはりあか抜けていた。
 悟がそれを「都会人になったな」と指摘して、嫌がった進太郎が田舎少年だったことを必死に話し始めたからすっかりこんな時間になってしまったのだ。
「信じてるって。行方不明になったって大騒ぎになって、大人たちが山狩りした時のことだろう? しばらく見つからなかったのに、ひょっこり親父さんの前に出てきたんだよな。そんでどこでひい爺さんと戦ったんだ」
「よく聞いてくれたな! 結局虫取りで勝負することにしたんだ」
 外からはやや暑気疲れのした蝉の声が響いている。悟は曇りない窓の外にちらと目を遣った。
 オレンジの日に照らされた田んぼは昔と変わらずその青々した苗を空に伸ばしている。しかしそれでも風景に不似合いなコンビニがあちこちに建っていて、もはや外で虫取りをしている少年など見当たらない。
 昔と今とは少しずつだが変わっている。
(……あ)
 悟は生き生きと話す進太郎の目の下に、隈があることに初めて気づいた。

 またも勝負を挑まれたというのに、進ノ介はいっそ嬉しそうであった。
「虫取りか。ふうん、いいぞ。俺も得意だからな」
 下着はとっくに乾いていた。あれだけ川の中で泳いだというのに腹は全く空かなかったが、当時の進太郎は不思議にさえ思わなかった。
 それは進ノ介も同じらしく、平気そうな顔をしている。
「じゃあ、見つけたら……」
 進ノ介はちらりと空を見上げ、進太郎に気づかない程度に少し寂しそうな顔をした。
 そして不敵に笑うと、先ほど進太郎が森に侵入した入り口の、舗装されていない道路を指さした。
「あそこの入り口で集合だ。もうそろそろ日も暮れるしな」
「わかった。絶対に待ってろよ! 次は勝つからな!」
 言うが早いか、進太郎は虫かごをひっつかみ、走り出した。
 あんな小さいやつに負けるものか。進太郎はその思いでいっぱいだった。負けたくないと強く思ったのは、今までにないことであった。
「じゃあな」
 進ノ介は少年の背中に一言呟いた。
 蝉はそろそろ鳴き疲れたのか、その声は少しずつ弱まっていった。

 林の奥へ奥へと進太郎は走る。絶対に進ノ介に勝ってやる闘志にも似た何かが進太郎の中には沸き上がっていた。
 足元にまとわりつく草なんか気にしていられず、血眼になってあちこちの木や草の陰を見て回った。
 気づけばあちこち蚊に刺されていたが、気づきもしないほどに沸き立っていた。
 同級生の中では一番背が高く運動もよくできた進太郎は、今まで自分の好きなことで負けたことは一度もない。
 勉強こそ逃げ回ってはいたが、それは初めから土俵に上らなかったのだ。大好きな虫取りや水泳は初めからよくできてクラスで一番だった。だからこそ多少好き勝手をしても誰も何も言わなかったのに、それを進ノ介が負かした。
 だからこそ負けるわけにいかないという気持ちと、純粋にあいつに勝ったらどんなに良いだろうという気持ちと、そしてほんの少し、自分より強い相手の出てきたのが嬉しかったのもある。
「絶対、ぜったい勝ってやる」
 進太郎は決意新たに探し回っていたが、山の中とは言えまだ夕方に差し掛かり始めたころで、カブトムシやクワガタが顔を出していることはまれである。
 西日に照らされる黒い背中を運良く見つけても、角のないメスのカブトムシで、進太郎の眼鏡に適うものではなかった。
 あいつは絶対強いのを捕まえてくる。だからこっちも強いのを捕まえなくては。
 コガネムシ、カナブン、草をかき分ければバッタやカマキリが見つかった。でもこれではだめだ。どうしてもオスのカブトムシで、大きいのじゃないと。

 蝉の声が弱まって、少しずつジージーという虫の声に変わり始めても進太郎は必死に走り回っていた。

 進太郎とはぐれてしまったことは、悟が慌てて駆け込んできたことで昼には進太郎の親にも伝わっていた。
「ごめんねえ悟君、進太郎が勝手して……」
「ううん。進ちゃん大丈夫かな」
「まあ、大丈夫だと思うけどお友達を放って勝手なことをしたのは、うんと叱っておくからね」
 まだ防犯意識も低く子供は外で遊べという時代で、熱中症もまだ日射病や熱射病などと言われて滅多にないものと考えられていたから親は暢気だった。
 その様子が変わり始めたのは、五時のチャイムが響き、進太郎の母も夕食の準備をすべて終えたころである。
 もう六時にもなろうというのに、まだ帰ってこない。真夏のことだからまだ明るいとはいえ、じきに暗くなる。
 両親とも、進太郎の気質は十分理解しており、悪ふざけはするが親を心配させるようなことはあまりないのも知っていたから、怒りよりも心配の方が少しずつ勝ってきた。山の方へ行ったというのもそれに拍車をかけ、両親は自治会に頼んで町内放送もしてもらったが、それでも進太郎が帰ってくることはなかった。
「消防団の方に……」
「悟君に、どこで別れたかもう一度聞いて……」
 両親は相談して、母は自宅で留守番をし、父は地区の消防団と共に山へ息子の捜索へ向かうこととなった。

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