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ある古書店の夜
閉店後の古書店に、決まって訪れる客がいる。
「こんばんは」
「こんばんは、いい夜ですね」
半白の頭に仕立ての良いグレーのスーツを着たその恰幅のよい紳士は、老眼鏡の奥に優しい笑顔を浮かべながら、ステッキを突いて現れる。そして書棚を興味深げに眺め、気に入ったらしい本をぱらぱらめくるのだ。
「座られますか?」
一度、本を吟味している紳士にそう声をかけてみたことがある。随分驚いた様子ではあったが、気恥ずかしそうにはにかんで、「では、お言葉に甘えて」とレジカウンターの端に置いた丸椅子へと座った。選んだ本は古い純文学のようだ。趣味が合う、なんて思いながら一度奥に引っ込んで湯を沸かす。
「もうお客様もいらっしゃいませんので、よろしければ」
紳士の口に合うかは分からないが、店の給湯室で最も上等の紅茶を出した。いつだか土産にもらったものだ。紳士は驚いたように目を瞬かせている。
「いえ、そこまでしていただいては……」
「はは。私も一息つこうとしていたんです」
「そうでしたか。……では、いただきます」
再び静寂が訪れて時計の秒針の音がよく響く。互いに何も聞かない。紅茶の温かさが心地よい。私も気に入りの文庫を読みながら、次第に本の世界へ引き込まれていく。ページをめくる音。時計の音。それだけが古書店に響いている。深々と夜が更ける。窓の外では満天の星。途中で眠くなってうつらうつらと夢の世界に引き込まれていった。
「ごちそうさまでした」
紳士はそう言って会釈すると、朝の光と共に溶けて消える。幽霊なのだからそういうものだろう。不思議でもない。頭を振って眠気を追いやりながら「またどうぞ」と返し、空になった紅茶のカップを片付けた。
今日も来てくれるだろうか。
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