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誘拐(旧題:少女と世界)

 昨日はショートケーキ。一昨日はアップルパイ。明日はガトーショコラで、その次はオレンジタルトを買ってくれるらしい。
「君は柑橘系のケーキが好きだものね」
「……」
 黙る少女は上等のドレスに身を包み、窓の外を見つめ続けている。
「紅茶は何にしようか。この間良いものを見つけたんだ、ほらこれ、見えるかい。アッサム、ダージリン、アールグレイの茶葉詰め合わせ。どれでも好きなものを」
「いいえ、カフェに行きたいわ。外はこんなに晴れているんですもの」
「……」
 少女の言葉で青年は先ほどまで浮かべていた人の良さそうな笑みを消した。きっと困ったのだろう、してやったりだ。
 ああ、この人が誘拐犯でなければ良いのに!

  ——なんて、きっと彼女は僕のことを誘拐犯か何かだと思っているのだろう。
 僕は苦労して見つけた茶葉の詰め合わせセットを戸棚にしまう。彼女のお気には召さなかったようだ。
 ある時世界は一人の少女の意志で一瞬にして荒廃した。世界が彼女の生きるのにふさわしくない、汚れた、嘘ばかりの、恐ろしいものだったから少女の癇癪ひとつで滅んだのだ。
 それ以降大人しくなった彼女は癇癪を起こすこともなかったけれど、世界は自分の好きなものやあるいは美しく心踊るものしかないのだと信じこんで、今日も腐りかけのパンの「ケーキ」を食べている。
「……」
 苦笑混じりにため息をつくと、僕も窓の外をじっと見つめることにした。
 きっとこの黒い雨しか降らない空は、彼女の目には入らないのだろう。何とも面白い少女を誘拐できたものだ。 

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