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透明の花

 通勤路の端に、アスファルトを割るようにして咲く花がある。
 空に広げる白い花弁にひまわりのような軸を持ち、数本まとめて咲く鮮やかな花である。
 ウェブで調べてみたところ、ガザニアというらしい。野の花にしては高級で、春の日を受ける様子があまりに美しいので、千代の通勤時の楽しみであった。
 ある日、あまりにも美しくその花弁を広げていたので、千代は辺りを見回してそっとスマホをかざした。画面に美しく収まった姿を眺めていると、後ろから声がかかった。
「何してるんですか? ……何だ。何もないじゃん」
 後ろからかかった声の主は彼女の同僚で、千代が何やら覗き込んでニヤニヤしているので声をかけたらしい。
「おはよう」
「おはようございます。遅刻しますよ」
 花のことを言いたかったが、彼女はぎらぎらする腕時計を覗き込んでばかりいるので、千代は笑顔だけを返し、いつものごとく会社への愚痴に付き合い始めた。
 適当な相槌を返す道すがら、千代はもう一つの頭で、とりとめのないことを考え始める。
 写真はちゃんと撮れたかしら。撮れたような気もするけど、声をかけられて忘れちゃった。しかし、何もないって言われたけれど、あの花が見えなかったのかしら。いや、そんなはずは。いや。
 ――いや、あれはもしかすると私にしか見えない透明の花なのかもしれない。
 千代のとりとめのない思考は、妙なところへ落着した。
 思い返してみると、道行く人はたくさんあるのに、特別あの花に注意を払っている人を見かけない。
 何より同僚は「何もないじゃん」と言ったのだから、きっとそうなのだ。
「高屋さん、何ぼーっとしてるの。もう会社つきますよ」
 気がつけば会社へ到着していた。年下の同僚は、まるで自分こそが目上のような顔をして呆れている。
 千代はにっこり笑って頷くと、くすんだ白のビルへ足を進めた。
 少し疲れたように息を吐く。今からは生来おっとり屋の自分が、透明になる番なのだ。

 千代はその夜夢を見た。幼い子供の姿に戻って、舗装もされていない土の道をまっすぐに歩いている。
 ところどころ花が咲いている。道行く人は穏やかに道を歩き、時折しゃがみ込んでは花を慈しんでいる。
 まっすぐ歩いている内に、千代は白のガザニアを見つけた。ああ、あの透明の花だとすぐに気づいた。
 千代はしゃがみ込んで、そっと花に触れてみた。花弁は柔らかく、空に向かって胸を張っている。
「綺麗な花ですね」
「ええ。そうですね」
 背後からかけられた声。彼女が答えた瞬間、相手はとうに消えていた。探す内に目が覚めて、千代はまた大人の姿に戻っていた。

 透明の花は、変わらず通勤路に咲いている。

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