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​鉱石蝶​

 宝石を食べる蝶がいる。名の通り幼虫のうちから宝石を食べて育ち、鉱石のような蛹を経て、やがて美しい宝石の羽を得るのだ。口吻はなく花の蜜は吸えない。代わりに小さくも鋭い歯が発達していて、鮮やかな宝石をごりごり噛み砕いて食事する。そうして口にした宝石の色に羽が染まり、エメラルドを与えれば緑、サファイアならば青、ルビーならば赤に近しくなる。羽の質も宝石と変わらず飛び立てば光を受けて鮮やかに輝く。羽の大きさは揚羽に近く、質のいい宝石を与えればより大きな羽を得る。彼らは「宝石蝶」と呼ばれ、その羽の美しさ、また質の良いものを扱っている証として宝石商に大切に飼われ威厳を示すアクセサリーとしての役割を与えられていた。
「俺はアクセサリーなんかじゃねえ!」
 ある春の終わり、どうした弾みであったかとうとう一匹の宝石蝶が豪奢な金の虫籠を嫌がり逃げ出した。
 美しいカットのアメシストを餌に与えていた、紫水晶の宝石蝶である。当初は見てもいられぬほどに取り乱した宝石商であったが、何、あの派手な見た目だ。どうせ野生に出たところですぐに見つかるか、ほうほうの体で逃げ返ってくるだろうと心を落ち着かせ再び美しい石の買い付けに戻った。その実、紫水晶の蝶が芋虫の頃大枚はたいて購入した一匹であったからそうでも思わないとやっていけなかったのだろう。そうしている内に宝石蝶よりよいアクセサリーを見つけ、紫水晶の蝶のことなど忘れてしまった。
「ちくしょうめ」
 宝石蝶の方はやはり野生には不向きであった。外には野鳥がいる。雨が降る。喉は渇く。いずれも小さな虫籠にいた頃には縁のなかったもので、苦難から逃げるのに必死であった。どうにかこうにか、宝石の羽を食べぬ野鳥からは見逃してもらい、大嵐の日には木の葉の裏で耐え、喉が乾けば雨水を飲みと耐え抜いた。しかしひとつだけ、彼には耐えられないことがあった。野生には美しく磨き抜かれた宝石など、彼の餌とする紫水晶など転がっていなかったのである。
「……」
 宝石蝶の逃げ出した春は過ぎ、秋にも差し掛かろうとすらしていた。さすがの宝石蝶も限界で、あの美しかった紫の羽は欠け、色は濁り痛みに耐えながら飛ぶのもやっとで、美しく豪奢な金細工の虫籠に入れられていた頃からすれば見る影もなかった。餌もない宝石蝶は痩せ細りながら、またその珍しい紫色の輝きを餌と間違った野鳥の腹いせにさんざつつかれながらも、今日もどうにかこうにか逃げおおせた。そして追いやられながら目に留まったのは秋の高い日に照らされた険しい崖であった。
「せめて、日の傾くまで」
 まだ日は高く空も青い。濁った紫でも多少は日の光を受けて輝いており、見つかりやすいのだ。そこまで考えたかも確かでないが、しかしともかく、あんなに岩のごろごろした、何もなさそうな場所であればこれ以上つつかれることもなかろうととうとうそこを目指すことにしたのである。崖上に転がる岩の形が、削る前の宝石に似ていて、郷愁を感じたのかもしれない。

 その崖の上は本当に岩や石ばかりで閑散としていて確かにとても生物がいそうにもなかった。ただわずかに残った草の影に、早咲きの真っ赤な幽霊花だけが一本生えているばかり、その他は一面の岩石である。外敵もない。誰もいない。
 ほっとすると同時に宝石蝶は、苦しくなるほど腹が減ってきた。出奔したときからずっと、水以外は何も口にしていない。腹が減れば葉に溜まった雨水と朝露だけを失敬してきた。
「……食えるはずがない」
 幼虫の頃から宝石だけを口にしてきた自分が、宝石以外のものを口にできるはずがない。食えるはずがないのだ。その思いには恐れと同時に、いくぶんかの見栄も含まれていた。俺は誇り高い宝石蝶なのだ。この美しい羽は紫水晶でできているのだ。その俺が石など、岩など。
「……」
 宝石蝶は自らの、ひび割れ欠けた羽を見やる。美しかった紫水晶。今度はもう一度眼前に広がる鉛色の石を見やる。金の虫籠の中ではただ宝石だけを与えられていたのだから、それ以外のものを口になど。口になど。
「俺はただ生きたいだけだ!」
 気づけば宝石蝶は、鉛色の石にかじりついていた。餌としていた宝石に比べれば味も質も随分劣る。しかし一度かじりつけばあとはもう見栄も誇りもなかった。石であればそれでよい。噛み砕くための歯なのだから。そうして宝石蝶は石を食らい続けた。

 遠くからその様子をじっと見ていたのは幽霊花であった。初め変わった色の羽に驚いていた彼は、宝石蝶が石にかじりついているのにじいっと見いり、やがて食事の終わったのを見計らって、静かな低い声で問うた。
「驚いた。お前は石を食うのか」
「!」
 宝石蝶は唐突に声をかけられてびくりとした。今の今まで、野鳥に襲われることはあってもそうして声をかけるものなどなかったのだ。怯えながら、声のするほうへ振り返る。真っ赤な花。
 幽霊花はなおも問う。
「石などより。どうだ、花の蜜はいらんか」
「何を。宝石蝶はそんなものは食えないぞ。他の蝶の口とは違うのだ」
「宝石蝶。ははは、宝石蝶か。そんなものがいるのだな」
 南下しだした日を背に受けて感心したように笑う見知らぬ花。何故話しかけてきたのか。少しばかりしゃっきりした触覚をピクピクさせながら、宝石蝶は問いかけた。
「お前は?」
「幽霊花さ」
「幽霊花? 知らないな」
「俺も宝石蝶は知らないな」
「そうか――」
 宝石蝶は食い散らかし小さくなった石の上に体を休めると、何となく空を見上げる。気づけば羽の痛みも薄れている。思わず自らの羽を見やれば、紫水晶の欠けた箇所を食った石の鉛色が埋めて、醜いまだらを形成していた。それでも、欠けたままでいるより痛みはなかった。
「広いな、世界は」
 幽霊花のその言葉で、これまでの疲れが宝石蝶には一気に襲いかかってくるようだった。
「逃げてきたのだ」
 気づけば宝石蝶の口から言葉が漏れ出ていた。一度漏れると止まることなく、これまでのことを洗いざらい話始めた。石にかじりつく姿を、この醜いまだらの羽を見ている幽霊花には、今さら隠すこともないような気がして、また何となく聞いてくれるような気がしたのだ。事実幽霊花は言葉をさしはさむことなく風に揺れて聞いていた。

「俺はダメだ」
 身の上を語り終えて宝石蝶は言った。幽霊花はただじっと蝶を見ていた。夕暮れの赤い日が崖の上を照らしている。
「俺はダメだ、バカだ。生きることが恐ろしいとも知らなかった。野鳥も嵐も餓えも知らないバカだったのだ。バカなせいで、宝石蝶のくせにみっともなく、こうして石などにかじりついているのだ。 本当は美しい宝石だけを口にして生きるはずだったのに。――籠の中の蝶など、大人しく、飼われているのが一番だったのだ」
 バカなことをした、バカなことをした、と繰り返す宝石蝶に幽霊花は笑うように揺れた。
「はは。皆そんなものだ。生きることは醜いものだ」
「いいや違う。お前はこうして凛とある。美しい赤をそのままに、俺のように色をまだらに染めることもなく」
「ならば戻るか」
 何でもないことのように、しかししっかりした声で幽霊花は問う。宝石蝶は答えられなかった。幽霊花はさらに続ける。
「戻るのか。平和で、安心な籠の中へ。嫌なことなど何一つない籠の中へ。籠の中の方が、よかったのだろう」
「何を!」
 うなだれていた宝石蝶はぴんと触覚を立て、まだら模様の大きな羽を夕日に照らしながら広げて見せた。
「あの脂ぎった人間! 俺の餌をやるだけなのに、自慢げにわざわざ一等美しいのを寄越すんだ。俺に上等のをやることで自分の富を自慢しやがる! 俺は見世物でもない、アクセサリーでもない! 籠の中など死んだも同然、俺はただ生きたいだけだ!」
「ならば、生きろよ」
 幽霊花は満足した様子で、赤い花弁を再び風に揺らしながら答えた。
「生きたかったのだろう。籠の中で、死んだも同然の見世物となるより、自らの生を生きたかったのだろう。なら、石にかじりついてでも、生きることだ。……幽霊になるまでは」
「幽霊? ……お前は」
 宝石蝶の問いには答えず、まるで幻でもあったかのように、幽霊花は風に溶けて消えてしまった。あのルビーよりも鮮やかな赤い花のあった場所には、若い葉が風に揺れているばかりだった。
 宝石蝶はしばらく辺りをうろうろと飛び回ると、何かを決心したように空を見上げた。夕焼け色の空はやがて薄墨にそまり、一番星が輝き始めていた。

 

 近年、鉱石を食べる蝶が発見された。幼虫の頃より岩石をかじり、鉱石のような蛹を経て、やがて羽化した姿は蛾にも似た岩のような羽を持つ。口吻はなく代わりに小さいながら非常にとがった歯が発達しており、岩や石などを餌として、含有される鉱石の色に羽を染める。宝石蝶の亜種ではないかとも噂され、どういうわけか彼岸花の咲く近くに生息しているということである。

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