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電車

 薬を飲み下すと靴を履いて駅へ向かい、やがて電車で夜の街を滑り出した。
 人は少ない。帰宅ラッシュを過ぎた終電一時間前の車内はこんなものだ。
 向かう先など元より決まっているはずもない。家にいると時計がカレンダーが翌日のことを考えろと急き立てて来るので少しでも落ち着ける場所を探した結果のSの慣習である。
 ふと線路に飛び込む空想をする。悲観でもなんでもなく今の苦痛から逃れるための手段としてただ空想する。しかしすぐ諦める。子のように等しく愛育している亀がいた。彼の存在によって空想の飛び込みを思い止まったのではない。しかし亀のことを思い返しているうちにそろそろ戻りの電車に乗らねば自宅で明日を迎えられないことに気づいたのである。

 適当な駅で反対の路線へ乗り込む。最寄り駅へほどなく戻ってくる。改札を通らず元の駅に戻り切符を払い戻しするのは本来犯罪である。犯罪であるが、捕まったり厳重注意されたりすれば人との関わりができる。
 もしかすると明日を考えなくともよくなるかもしれない。少し期待する。
「キャンセルになったんで、払い戻しを」
「……180円になります」
 予想に反し睨まれるだけで終わる。駅を出る。生ぬるい気温だ。三日月が出ている。
 Sは息をつくと、明日も襲ってくるだろう倦怠を予期しながら家へ向かう。また今日も生き延びてしまった。

「いつ死ねる?」
 芝居がかった陳腐な言葉だ。死ぬ人間は意気地のない自殺未遂を起こさないのだという。

 Sはため息をつくと、亀の餌がそろそろ切れそうなことをメモ帳に書き留めた。

 

 

 こちらの掌編はお題をお借りして作成しました。

 3つの単語お題った― https://shindanmaker.com/772443 

 お題:「電車」「薬」「三日月」です。

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