鬼の棲む森
りいんと、森の奥から鈴の音がする。聞いてはならないとわかっていながら、美津子はつい立ち止まってしまった。りいん。再び、狙い澄ましでもしたように鈴の音がする。
彼女が森の入り口にちょうど立っているのを知ってでもいるかのように。
(……帰らなきゃ)
使いの途中だった。年老いた母に少しでも良いものを食べさせようと、近所を回って手伝いをしたその帰りだった。
だから道を急がねばならないのに美津子の足は動かなかった。
(でも)
りいん。
美津子はこの音を幼い頃に聞いて知っていた。まだ、変わったものがあれば疑いもせずに追いかけていた頃、同じように森の入り口で一人遊んでいた時に同じ鈴の音を聞いた。
母はその頃より病弱で、父もやはりその頃には姿をくらましていた。一人きりだった。
だから誰も止めることもないままに森の奥へと足を踏み入れて、優しい鬼と出会ったのだ。
「お前を迎えにいってやろう。俺と同じで寂しい娘よ」
幼い美津子の境遇を嘆いた鬼は、確かにそう約束した。
そして幼い美津子は帰されて、気づけば三日も経っていて、母は半狂乱になるほど悲しんで、お前がいなければ生きてはおれぬと、今後決して森へ行ってはならぬと止めたのだ。
りいん。あの時と同じ鈴の音。あれからもう十五年か。きっと呼んでいるのだろう。足の方が勝手にふらふらと森へ行きかけるのを止める。
いけない。りいん。いけないのだ。りいん。
――いいや、どうして行ってはならないのだろう?
生活は十五年の間少しも楽にならないし、彼女を唯一案じる母はもう明日をも知れぬ身だ。
母がいないと生きてはいけないが、母がいたって楽にもならない。唯一の家族を、そう思うしかない。
「俺と同じで寂しい娘よ」
優しい鬼の声が聞こえた気がする。
いつも死の匂いがする家。可哀そうなものを見るような周囲の目。思えばこの辛い生活の中で、あの森で遊んだ時だけが楽しかったのだ。
美津子はふうと息を吐くと微笑んで、森の方へと足を向けた。
鈴の音は彼女を導くように鳴って鳴って、そうしてやがて消えてしまった。
帰らぬ娘に再び狂った病弱の母は、失意のままに死んでしまったという。