幕間 黄昏の兄弟
二宮家の前ではTシャツに黒いパンツ、サンダル履きの人影がひとつ、澄んだ青色の瞳で往来を見つめている。人影は内緒話をするように小さな声で口だけを動かす。
「ごめんね朱里くん、弟が戻って来ると思う」
「弟さん、レイさんですか」
「そう」
「言ってた通り楽しい人でした」
「それはよかった」
話す声は一つきり。夕焼けに延びる影もきらきらするポニーテールが一つきり、当然朱里が一人で喋っているきりなのに、朱里は親しい誰かと喋るように、くすくすと笑いすぐに目を見開いた。
「あ、来た」
朱里の見つめている往来の向こうから、やがて小走りの足音が響いてくる。朱里は頷く。
「じゃあ、変わりますね」
「ありがとう。……。やあ、おかえり」
朱里は敬語を外してにっこり笑った。
走ってきたのは先ほど清香達と別れたばかりのレイだ。彼は先ほどまでの態度と打って変わって、朱里の方をぎっと睨み付ける。
「ようやく、ようやく仮面を脱ぎやがりましたか」
「レイさん、さっきまでそんな乱暴な口調じゃなかったのにいったいどうしたんですかあ?」
「似てないですよ」
「何のことです?」
「……」
レイは朱里を睨みつづけ、朱里はやはりにこにこ微笑み続けている。
そのまましばらくの沈黙が続き、吹き出して静寂を破ったのは朱里の方だった。
「いやーごめんごめん、そんなに怒らなくてもいいじゃーん」
「怒りますよ何してんですか変態兄貴、仮も女性の体の中に入り込んでる時点で無理なのにそれが女子高生とか本当に」
「不可抗力」
「電車で体に触れるおっさんですかあんたは」
「お、来たばっかりだろうによく勉強してるね偉い偉い。朱お兄様が褒めてしんぜよう」
「あなたは本当に……!」
「しー、お外お外」
レイはその言葉にぐっと詰まる。
「じゃあ行こうか愛しい弟よ。どっかその辺の公園にでも」
確かに朱里であったはずの金髪はレイを確かに「弟」と呼んだ。
金の髪と銀の髪、二つの背が夕暮れの道を行く。「朱」と名乗った朱里の姿の彼は歩きながら大きな息をついた。
「はーほんと、セイカ様生きててよかったわー。留守番のふたりも生きててくれてよかった。このまま誰も呼びに来なかったらどうしようって思ってたもんね」
心底ほっとしたような横顔でありながらどこまでが本音か分かりにくい、見知った表情だとレイは眉間にシワを寄せる。何故この人が、朱里の中に「そのまま」の状態でいるのか。手段は。それは転生なのか。何故事前に知らせなかったのか。朱里は何も知らないのか。何故、肉親である自分にすら。
(そもそも、空約束だったでしょうが)
聞きたいことも爆発させたい感情も満載のレイが問うより随分早く、明日の天気でも聞くように朱が聞いた。
「で、何があったの。今、向こうは?」
「塩の雨が降り、青国の兵は全て止まりました」
「……何故?」
朱が足を止め、レイもつられて足を止める。笑顔とも真顔ともつかない、何を考えているか分からない表情。レイの一番苦手な表情だ。事実今の「何故」がどこに掛かっているのかレイには分からず素直に首を振る。
「分かりません。僕たちの魔法も一切寄せ付けなかった彼らにどうしたエラーが起きたのか」
「ふうん、ラッキーだったね」
朱は再びにっこり笑って歩き始める。これは、欲しい答えがなかった時の朱だ。いつもこうして人を測る。慣れているから間違ったことにはすぐ察しがついたが、それでも彼が何を聞きたいのかは分からなかった。塩の雨が降った理由か、それごときで青国の攻勢が止まった理由か、それとも「何故塩の雨が降った?」ということだろうか。候補は浮かぶがきっとどれを答えてもまともに相手をしてもらえない。初めの答えを間違えた時点で彼の試験に落ちている。
レイは何度目か分からないため息をつき、朱に並んで歩き出しながら続ける。
「向こうは、フェイ様にお守りいただいています」
「フェイ様かあ」
ようやく近くの公園にたどり着いた。朱は会話を続けたまま、ベンチにどかりと腰掛ける。女性らしい所作だった朱里と違って、その動作は完全に「朱」だった。
「でも、こうして青国側がやってきているということはあまり楽観もできないね」
「兄さん足、足閉じてください」
「お? おお……、うん、そうだね」
目をぱちくりさせる朱にレイは続ける。
「借り物のお体でしょう」
いくら朱の顔であってもその体は朱里だ。そうレイが言うと朱は首を振った。
「ああ、いやーうん、そうだね。はは、それもそうだけどね、十六年ぶりに呼ばれたなって」
「は?」
怪訝な表情のレイに苦笑して、えーとえーとと言いながら朱は顔を覆う。いったいこの兄は何に動揺しているのだ。レイの疑問をよそに朱は何でもないよと首を振り「あーそうそう青国」と呟いた。
「青国。あいつらさ、何故俺らを追う必要がある? 放っておけば国は勝手に滅ぶ。確かに塩の雨は降った。我が国にとっては恵みの雨、敵国にとっては非常事態だ。けれど今更それに何の意味がある。勝敗は決していただろう? 和平も飲まなかったろう。先代のエスト王も後継者のセイカ王女も『もうこの世にいない』のだから城を落としフェイ様を討つなり属国になれと言うなりすれば済むだろうが。……何故『死した』王族をこんなところまで追いかける?」
「……」
先程の「何故」の意をレイはようやく汲み取った。確かに道理が通っていない。わざわざこちらの世に来て王族の魂を持つ清香、ましてや宰相だったに過ぎない睦実を狙う必要など果たしてあっただろうか。全ての民が機械でできている青国にとって塩の雨は確かに大ダメージだが、もう残存勢力など空国にないのだ。国が欲しいなら交渉なりなんなりで易々と分捕れる。
「我らのこの逃亡は、敗国兵の醜い自決でしかないじゃないか」
「……兄さん」
咎めるレイの声が聞こえないように、朱はそこまで言い切った。カラスが遠くで鳴き、合図のように間に沈黙が流れる。夏の風が通り抜けた。
言葉の糸口を探しながらもレイは「確かに」と考える。
(確かに、何故つけ狙うのだろう)
割に合わない。国が欲しいなら取れるだろうに、王族を、龍を追う理由。
(空約束を知るわけではないのに)
朱はあっと思い出したように明るい調子でレイに問う。
「あーそうだそうだ、セイカ様。ご協力いただけそうな感じだよね?」
「転生されてもお人よしのようで、よくご協力いただいています。こっちに来るかはまだ少し迷っていますが……、ご家族が大事なのは転生前と同じです」
「ははは。予想通り。ちょっと変わった子みたいだけど。陸奥宰相は転生されても慎重派のようだね」
「ええ。導く方ですので変わらず頭は良いようです。しかしまだ年齢相応、『鱗』と言えすぐにの宰相復帰は無理でしょう」
レイはついでに疑問を口にする。
「一つ聞きたいのですが、兄さんは今どういう状態なのですか?」
「まあ、前世の記憶を引き継いだままの転生なんて、神の御業でもないと難しいよね。 俺もしかして神だったのかもしれない」
「何か言いました?」
こっちで流行のお話でもそうだよね、と笑って続ける朱にレイは眉を吊り上げる。何をふざけているのだろうか。
「ごめんて」
「……。腹が立つのに女性だと思うと不思議と殴れないですね」
「やだ家庭内暴力! そういうの今DVって言うのよ!」
「しばくぞ」
やや怒気を孕んだレイの言葉に朱は却って大笑いした。
「あーもう、元ヤン怖いなあ。まあでも大方レイの考えてる通りだよ。この体の中には俺の魂もあるし朱里くんの魂もある。朱里くんもそれを知ってる。時々俺から助言もしてる。いや、俺もまさかまさかなんだって」
「……もう、何をあなたに言えばいいか分からなくなりました」
レイは手で目を覆って天を仰ぐ。何故それをあっけらかんと言うのだ。転生でも転移でもない方法で朱里の中に入り込み、しかも空国での記憶もあるとはどういうことだ、聞いたこともない。内容を解明してリスクの分析もしないといけないのに、本人はあっさりしていてレイは目が回りそうだった。朱は変わらず何でもないことのように続ける。
「でも主導権は朱里くんにあげてる。朱里くんが体を貸したいと思った時だけ俺が表に出てる。……すごくいい子でさ。例えば怖い思いしたり嫌なことを言われる場面なんか俺に任せればいいのに、そういう時はいくら言っても貸してくれない」
「……」
「今日さ。青国の兵が来たときにすら自力で立ち向かおうとするからさあ。流石に怒ったんだけど、魔力の比率が俺とぴったり同じだったからやり方教えてみたら、素質あったらしくて火柱ファイヤーしちゃったよね」
「真面目に話してもらえませんかね……、とにかく、事情は分かりました」
あははと軽く笑う朱に、レイはこれでもかと大きなため息を吐いた。何度目のため息だろう。そしてにっこり笑って朱を見つめる。
「次は、宮廷図書館副司書長の『朱』として清香さんに会っていただきますからね」
「げ」
「『げ』じゃありません。朱里さん聞こえていますか、不肖の兄ですがお世話になります。次会う時は意地でも出してくださいよ」
レイははっきりそう言うと、別れの挨拶もせずに踵を返した。その後ろ姿を見送って、やがて朱は空を見上げる。辺りはそろそろ暗くなりそうだった。同じ口から、小さな声が零れる。
「釘を刺されちゃいましたね」
「あーあ、困った。セイカ様、もうあんまり顔合わせたくないんだけど」
「何でですか?」
「どんな顔して会うのさ」
そう言って朱は手の平で目を覆う。しばらくして、自嘲するようにつぶやいた。
「おかしなものだよね。王族が城を枕に死ねば美談で終わっていたのに。滅んだ国の王が逃げたって洒落にもならないんだ。記憶もない、力もない、洒落にもならない。転生したってそこにはただ二度目の人生があるのみで彼女はもうセイカ様でも何でもない。逃げだよ。逃げさせただけだ。一縷の望みなんかじゃない空約束だ。ただそれだけだ、ただそれだけでも、俺は……」
幼い子供に、あんな目をさせたくなかったと朱は誰にも聞こえないよう呟いた。
「……逃げるのは悪いことじゃないって、朱さん言ってましたよ」
「朱里くんは……」
朱はそこまで言いかけて口を閉じる。代わりに口元を緩め、ベンチから立ち上がった。
「帰ろうか」
「はい」
一つきりの影が帰路についた。