黒猫は夜空を翔ぶ
ショウは疲れきっていたから、夕食を取った後は部屋の電気さえ消して床に座り込み、ぼんやりとベランダの方を眺めていた。
春である。暖房も冷房も不要な季節。だから暑いとも寒いとも思わず、ただただ窓の外を見ていたが、途端、闇夜に紛れて何かが飛んだような気がした。続けざまにふぎゃ、というような声がしたので慌ててベランダに続く窓を開けてみると、何のことはない、物干し竿の下に紛れているのは暗闇に溶けるような黒猫であった。
「月に向かってとぶ練習なのです」
「月に向かって」
何とか助け起こして部屋に連れ込んだ黒猫から放たれた言葉は意外なもので、ショウはついおうむ返しする。ここはマンションの四階だ。
「何でまた」
「お届け物です」
「届け物」
カーテンを閉め電灯をつけるショウの後ろで黒猫はええ、とマイペースに頷いてその小さな首を見せつけるように胸を張った。眩しくなった部屋の中で黒猫を振り返れば真っ赤な首輪。その中央に垂れ下がっているのは鈴かと思いきや、これも真っ赤な宝石だった。
「首輪に指輪?」
「珍しいものでもないでしょう」
首をかしげた黒猫にショウはいやいやと首を振った。話すのだって珍しいのに、首にルビーの指輪をぶら下げて、月に向かってとぶ黒猫はなおさらだ。
しかし黒猫は一つあくびをすると、後ろ足で器用に首を掻く。
「何が不思議です。黒猫の運び屋は昔からいるではないですか。箒に乗ったり緑の車だったり色々だが」
「いやまあ、そりゃそうだけど」
「だから僕はこいつを届けるのです」
「月に? ……誰に」
マイペースさに圧倒されながらも辛うじてショウがそう聞くと、黒猫の黄色い目がきらりと光った。「僕の世話をしていた者ですよ」、よくぞ聞いてくれた、とでも言うように黒猫は胸を張る。
「月にいるのか」
宇宙飛行士の飼い猫か何かなのだろうか。一般人だって金を積めば宇宙に行ける時代だ、しかしそんな有名人がこの辺に。ぐるぐる考えるショウを横目に、黒猫はさあ、と言いながらにゃあと鳴いた。
「さあ。まったく、いったいどこに行ったんだか」
「うん?」
「皆は口を揃えてお星さまになっただの言いますが、そんなわけがない。猫は一度死んだところで星になりませんよ。九つも命があるってのに」
「……」
ショウは言葉を返さずに、ただ黒猫の体をじっと見つめた。毛づやもよく、痩せてもないし太ってもいない。スマートで、飼い猫然としている。
愛されていたのだろう。
黒猫はその真ん丸な瞳でカーテンの方をじっと見つめて続ける。
「しかしきっと、皆が言う方向に消えたには違いありません。だって皆揃って嘘をつく理由がありませんからね。僕は猫にしては気遣い屋なのです。あの大きな世話焼き猫は、この赤いおもちゃが好きでいつもつけていました。きっとなくしてにゃあにゃあ鳴いてるに違いないのです。……さっさと見つけてやって、僕が届けてあげないと」
「あのさ、それって――」
「では、僕はこれで」
ショウが何か言う前に、黒猫はカーテンの隙間に潜り込み、器用に前足で窓を開けて消えてしまった。そういや鍵をかけていなかったと慌ててベランダに飛び出しても何もいない。ショウが月を見上げると、その方に向かってとぶ黒い影だけがあった。
マイペースだ。しかし、マイペースとはつまり、自分の思うままに動くことなのかもしれない。そしてそれは、自分の強い意志で思いを遂げることなのかもしれない。
「……。野暮だったよな」
ショウは先ほど言いかけた言葉を飲み込んで、代わりの言葉を月に向かって呟いた。
「届くと良いよな」
黒猫は、今日も夜空を翔んでいる。