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老桜奇譚

 冬子の毎年の楽しみは、授業の始まるより少し早くに配られる国語の教科書であった。
 少々風変りにも見えるが冬子にとってみればその「教科書」の名を冠した様々な物語の寄り集まりは無料で手に入る短編集にも同じで、授業の始まるまでにすべてのページを読み切ってしまうのを毎年の趣味としていた。
(どこか、外で読もう) 
 小学校高学年ごろに始まった趣味。国語が「現代文」と「古典」という細分化をされて久しい高校二年生となっても、教科書をもらえば心は躍り、密やかな趣味を行う場を探し帰り道を一人さ迷うのである。
 短縮授業だったからまだ日は高く、また進級にふさわしい驚くべき快晴でもあった。さすがに高校二年生の分別だけあって、図書館や喫茶店という場所を考えもしたが、しかし級友に会った時のことを想い直し、結局は「外」という子供のような選択肢を取ることにした。
 初めから自宅という選択肢が彼女にないのは、何より父母が彼女の勤勉を嫌うからであった。

 帰路の途中にある青空駐車場は冬子に馴染みのある、落ち着く場所だった。もはや薄汚れて見えないプレートの奥はよくある砂利敷きで、三方は家屋に囲まれている。その、屋根と屋根との間を曲がりくねりながら生えているのは、一本の桜の老木である。「桜のある駐車場」と言えば辺りの人は大体の場所がわかる目印となっていた。
 桜の木が本当に老木なのかいつからあるのかなどは冬子にも分からない。しかし冬子が駐車場をかくれんぼの穴場としていた小学生の頃からあるもので、母も祖母も桜を知っているようだったから何となく老木なのだろうと考えているまでのことである。駐車場自体、車があって危ないから遊ばないようにと母から何度か注意されていたので詳しくは聞けていないのだ。ただ、ここに車の出入りはほとんどなく安全であることも、多くの人が立ち入って桜の下で話をしていることも、それらへの注意も特にされないどころか、桜の下には座るにあつらえ向きの腰掛けが置いてあることも辺りの人は知っていた。
 老木は、道路の視線から紺のセーラー服を隠すのに十分なほどの太さであった。曲がりくねりながら空へ伸びる幹に枝に薄紅色の花がみっしりと咲きそろっている。風が吹く度はらはらと花弁が舞い落ちる。冬子は辺りをうかがいつつ古い腰掛けを道路から隠すように動かすと、木を背もたれににゆっくりと座った。
 物語を一つ、二つ、論文を一つ。時折花弁がページに挟まってくる、その柔らかさ。教科書から漂う新しいインクのにおい。冬子は幸せに微笑んで、そしてあっと気づいてすぐに教科書を閉じた。
(誰かいる……?)
 ――いつの間にか、近くに一人の老爺が立っているようである。慣れ親しんだ場所とは言え遊ばないようにとの大人の言いつけを破ったことには違いない。何か注意をされるのだろう。
 慌てて教科書を鞄に仕舞い立ち上がると、その小さな老爺は冬子に目もくれず、じっと桜を見上げているばかりである。挨拶でもすべきか、邪魔しては悪いか。どうしたものかと冬子が立ちすくんでいると、深い皺の刻まれた人好きのする笑顔が向けられた。
「綺麗なもんだろう」
「え」
「ははは、そりゃあ今どきは警戒するわなあ」
 困ったように笑う老爺に、冬子は首を振る。不審者だと思ったわけではない。むしろ注意されると思ったのである。何より先ほどまで人気など全くなかったのに、老爺の現れたのは唐突でもあったような気がした。
 老爺は少女の様子など意に介す様子もなく、マイペースに話す。
「この桜も今年で終わりさ」
「……どこか、悪いんですか」
 冬子はまるで人の容態を訪ねるように問う。老爺は首を振った。
「いや。寿命だ、天命かな。もうずいぶん長くあるから。どうせ、来年には花もつけないだろう」
「寿命」
 木にも寿命があるのだと話には聞いたことはあったが、目の前の木がそうだと言われても冬子にはどこか実感がなかった。いつも通り咲いている桜だとしか思えない。
 冬子がじっと薄紅色の一輪一輪に見入っていると、老爺は「ところで」と話の矛先を変える。
「随分勉強熱心だ。本が好きなのだね。この辺りの子かい」
(わ、わ、あいさつしなきゃ)
 老爺は、冬子の隠した国語の教科書を知っているらしく慈しむように笑う。
 見知らぬ人からの心よりの厚意であろう言葉に素直な冬子の頬は紅潮した。これが仮に父母であれば噴き出しながら「教科書読んでるの?」で終わってしまうのだ。息を整えると片田舎の習慣に則り、冬子はまず父の名を告げる。
「えっと……。あ、あの、すみません勝手に入って。高田雄介の娘で、冬子と言います」
「ああ。君のおばあさんなら知っているよ。顔立ちがよく似ている」
「よく言われます」
「さっきのは国語の教科書?」
「はい。図書館とか喫茶店とか、知り合いに会いそうで」
「春はばけもの……」
「あけぼの……、ですね」
 中学で習った古典の初歩を思い返しながら冬子は笑う。ダジャレのつもりなのか物忘れなのか判断はつかなかったが、いずれにしても老爺の表情が少しも冗談めいていなかったのが少し気にかかった。そしてどうしてか、初めて会ったような気がしなかった。
「この場所が気に入ったならまた来てくれて構わないよ。そんなに出入りもないし、何よりこの桜ももうすぐ終いだ」
「ありがとうございます」
 咎められるどころか許可を得られたことにほっとして、冬子はようやく丁寧にお辞儀をする。
 別れの挨拶もそこそこに駐車場から出つつ、もう一度桜の方を振り返った。
(来年には終わり……)
 桜は今を盛りと咲いている。落ちかける太陽に映る桜は光を透かしながら、変わらずその姿を誇っている。枝ぶりも見事だったし、何より花はぎっしり詰まるように咲き溢れていた。
 もうすぐ終わってしまうのか。幼い頃からこの場所には通っていただけに見知った光景が見えなくなるのは切なさがあった。
(あれ?)
 すれ違いもしなかったはずだが、木の傍にあったはずの老爺の姿は不思議なことに既にない。ぼんやりしていたせいだろうか。しかし老爺の真っ白な髪や好々爺然とした表情、何より隠していた趣味を褒められたことなどが嬉しく、冬子は明日もう一度会えないか期待していた。



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