老桜奇譚
冬子のどこか遠慮がちで、むしろ一人を好むのは生まれもっての性質というわけではなかった。幼い頃は男の子に混じり、外でかけっこやかくれんぼ、鬼ごっこに興じていた。
「馬鹿ねえ。男の子とばかり遊ぶからよ」
「……ごめんなさい」
変わってしまったのは小学三年生の頃で、よく遊ぶ男の子たちの中に、クラス一の美少女の、その想い人が混じっていたことが要因である。「高田さんって男の子とばかり遊んでいるよね」。人気者の美少女のその一言で少しずつ不和の輪が広がり、四年生の頃には徐々にいじめの体を取り始め、少しずつませていく子供たちは当然ながら狡猾に、陰湿に冬子を取り囲み始めた。
「謝ったってしょうがないじゃないの」
ランドセルの中身が全て汚され、母に叱られた日から冬子の性質は一変し、その内に本の世界へ遊ぶようになった。物語の中では誰かに甘えていられるような安心感があった。母も翌日休ませてくれたり、数か月ほど気遣ってくれた。しかし冬子に元のお転婆な気質を取り戻させることはかなわなかった。
(いつか、昔の明るい子に戻らないと)
お転婆が少しずつ勤勉に変わっていくことに焦ったのは父母で、それは未だに続いている。冬子もいずれ元の活発な性格に戻らなくてはならないと分ってはいたが、なかなかにできそうもなかった。
冬子は帰宅すると「ただいま」もそこそこにまずは仏間へ向かい、鈴を鳴らした。仏壇に祖父の遺影は飾ってあるが、冬子は祖父の声を知らない。父の幼い頃に亡くなったらしく、写真で三十代頃の顔を知るばかりである。
(聞いてみようかな)
「君のおばあさんなら知っているよ」。習慣で手を合わせながら、冬子心はどこか急いていた。聞いてみるべきか、どうするか。帰路の中、ずっと老爺とのことが頭を巡っていた。人見知りの冬子にとって立ち話をすること自体が珍しく、また褒められたのもあり、心が少し跳ねていた。とうとうそのそわそわに観念した冬子は、仏間の隣にある祖母の居室の襖を開けた。
「おばあちゃん」
祖母は炬燵で暖まりながらのんびりとテレビニュースを見ていたが、襖が開いたのに気づいて嬉しそうに冬子へ笑いかける。同居ではあるが、冬子が自ら祖母の居室を訪ねることはほとんどない。幼い頃はよく懐いていたが冬子が大人しい気性で育つとともにか、そうなっていた。
老爺の指摘したとおり顔立ちはよく似ているが、祖母の方が幾分か美人だ。
「冬子ちゃんお帰りなさい。今日が始業式だったのでしょう。これ、高校二年生のお祝いよ」
「い、いいよ、前ももらったよ。……あ。ありがとう」
何かあればすぐお小遣いをくれようとする祖母なので冬子はそこそこに遠慮したが、結局握らされてしまった。
少しの決まりの悪さと共に紅白のポチ袋を制服に仕舞うと、お礼を言ってから冬子は聞いた。
「……ねえ、おばあちゃんって、あの桜の駐車場のところのおじいさんと知り合いなの」
「駐車場の? ああ、あそこのおじいさんねえ。結構前に亡くなったけど、近所づきあいくらいはあったわ」
「亡くなった、の?」
「そうそう。息子さんが五十幾つだったかしら、今は引き継いでいるみたいね」
「そう……?」
冬子は奇妙な気持ちになった。
(『また来てくれて構わないよ』)
「またおいで」は普通、家主の言葉である。今の管理人は五十代だというが老爺の見た目は五十代には見えなかった。では家族か何かだろうか。
そんな冬子に祖母はのんびりと話しを続ける。
「そう言えば、今は駐車場なのよね。昔は空き地で子供もよく遊んでいたし、私たちなんか桜の下で待ち合せたり、本を読んだりしたものだけど。今は勝手に入れないわねえ。残念」
「……そう、そうだね」
戻った話に冬子は合わせる。入ってはいけない場所に入ったことは口にも態度にも出さなかった。
「でもあの駐車場も潰してしまうって話でしょう。早いものだわ」
「え。潰すの」
「更地にして売りに出すみたいよ。内緒だけどあの桜、おじいさんとよく過ごした木だから、何だかもったいないわ……」
更地にするというのであれば、何故また来てもいいと言ったのだろう。知らなかったのだろうか。冬子は急に不安になった。警戒心というよりは、自分を褒めてくれる大人にもう一度くらいは会いたいという気持ちがあり、会えない可能性に少ししょげたという方が近い。
「そっかあ……」
(取り敢えず、明日もう一度くらい行ってみようかな)
きっとまだ明日くらいなら工事も始まっていないだろう。ふうと息をつき、冬子は何となく辺りを見渡す。本棚の敷き詰まった部屋。祖父母とも読書が好きだったのだと聞いたことがある。落ち着くのは本の匂いのためか、懐かしさのためだろうか。
祖母はにこにこ笑っている。まともに会話したのは、ずいぶん久しぶりであるような気もした。
その日幼い頃の夢を見たのは、老爺との出会いや祖母との会話と全くの無関係ではなかっただろう。
「もういいかーい」
男の子の高い声が遠くから響く。幼い冬子はあの桜の駐車場の奥まで走って、桜の木に回り込む。こうすればそうそう道路側から見つかることもない。
「もういいよー」
桜は満開に咲いている。冬子がここによく隠れたのは、何となく落ち着いたからでもあった。男の子の走ってくる音がする。冬子はくすくすと、つい忍び笑いを漏らす。幼い頃の思い出。この時は、一緒に遊んでいた男の子が自分の環境を一変させるだなんて考えてもいなかった。
「冬ちゃん」
ひとひら、目の前に桜の花の舞い、やさしい声が冬子を包んだ。
「冬子ちゃん、おいで。ご本読んであげようか」
母にいじめの事実がばれ叱られてしまった日のこと。
祖母の住む部屋の襖を冬子が開けたのだか、ぼんやりしている冬子を祖母が見つけたのだか。当時のことは覚えていない。何を読んでもらったのかすらも。ただ祖母は冬子が悲しんでいるのを分かっていたのかもしれない。
いじめが悲しかったのと、「馬鹿ねえ」の一言が突き刺さったのと。凍りついた気持ちを溶かしていった祖母の膝の温かさ、声の優しさ、紙の匂い。夢の中だからか、随分と鮮やかに思い出せる。冬子が物語の世界に没頭するようになったのは、祖母に甘えるようなつもりもあったのかもしれない。
(忘れていたなあ……)
夢の中で冬子は思う。そう言えば、祖母がきっかけであったのだ。
あたりはまた桜の駐車場に変わる。桜の下には祖母と、冬子が立っている。互いに言葉はない。ただいるだけだ。しかしどこからともなくとげとげしいような、嘲笑するような声がした。
「ああ、冬子はもうそんな普通の子じゃないのよ。ほんと変わっちゃって――」
いつだったか、母がそんな風に電話で言っていた。勤勉な子は母にとって「普通」でないらしい。幼い頃のお転婆な明るい少女のまま育つのを期待していたのだろう。何より「本ばかり読む子になってしまった」という焦りや冬子をそう変えた義母への言い表せぬ思いもあったに違いない。
高校二年生の今も本を読むとその勤勉をからかい、勉強ではなく友人と遊べ、恋人を作れ、普通の高校生になれとまるでアレルギーでもあるように言いだすのはきっとその思いや期待の消えぬ証拠だ。
だから、いずれは明るい子に戻らないと――。
(どうしてそんなことを期待するんだろう)
――母も、私も。そんなこと、できやしないのに。
相反する気持ちが交錯する。風が吹き、祖母の姿は桜の花びらと共に消え失せた。
祖母と疎遠になったのは、人に遠慮がちになったのは、どうしてだったろうか。