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秋の町で生まれた蝶

 町の少し外れにある不思議のガラス工房には一人のおじさんが住まっており、いつも気まぐれにガラスを吹いてはそれを売ったり売らなかったりいたしました。しかし芸術を愛する秋の町のこと、工房は潰れることもなく、長く長くこの町にあるのでございました。
 ある天高く晴れた日のことでございます。おじさんはまた気まぐれにガラスを吹いておりました。朝から晩まで、ごうごう燃える火の近くで汗をたくさんかきながら、ふうふうガラスを吹くのです。ガラスの器、ガラスの花瓶。おじさんはガラスと一心同体であらゆるものを作ります。はては秋桜、森の子リス、そうして最後にきらきらした透明の蝶を作り出しました。最後の蝶は見事なできでまるで生きているようですらありました。
 おじさんも満足したようにその蝶にじいっと見いっておりますと、不思議なことに美しいガラスの蝶はにわかに輝き帯び、翅をパタパタさせ辺りを飛び回り始めたのです。
「ははあ。外に出たいんだな。窓を開けてやろう。さあ、せっかくの翅と魂だ。素敵な旅に出てお友達を作っておいで」
 おじさんは不思議の出来事に慣れていると見え、意に介す様子もなくのんびりとした声を蝶にかけます。蝶はおじさんにひらひら、きらきら挨拶いたしますと窓に射す秋晴れの中を緩やかに滑り出しました。
 おじさんは蝶を見送りますと、またガラス吹きの仕事に戻りました。
 
 生れたばかりのガラスの蝶はひらひらきらきら旅行きます。工房を出てすぐ外で目にしたのは、アスファルトの道路を挟むようにして続く銀杏並木でありました。人は皆秋色のコートを纏って歩き、時には秋の町の人らしい物好きで空と銀杏を見比べ、歌や詩を詠もうと立ち止まっております。
「おやおや美しいお嬢さんだ。こんにちは」
 蝶に話しかけてきたのは、銀杏並木の中でも大層立派な老木です。
 真黄色の銀杏の葉がひらひらはらはら舞っておりますので、つい誘われたガラスの蝶も銀杏の葉と絡まるようにダンスを踊り、ついには木の葉に染められて、透明なガラスの翅は明るい黄色となりました。
 銀杏の老木はガラスの蝶が黄色に染まったのを見て感嘆します。
「これは何と立派な黄揚羽だろう」
 そして続けて問いました。
「素敵な揚羽のお嬢さん、あなたはどこから来てどこへ行くのかね」
 黄色に染まり上機嫌の蝶は、つい先ほど不思議の工房で生まれたことと、旅に出てお友達を作ってくることを話しました。
 銀杏の老木は体を揺らし「それはいい!」と喜んでわっはっはと笑います。
「南に行けば夏の町。東に行けば冬の町。どちらもきっと、若者には楽しい旅ができることだろう!」
 夏の町、冬の町。ガラスの蝶には初めて聞く言葉です。
 もっと話をせがもうとしたそんな時、ちょうど良い秋風が吹いてまいりました。蝶は風には逆らえません。
「ではお嬢さん、気をつけて」
 ガラスの蝶は秋風に流されながら銀杏にお礼を言いました。そうしてぱたぱたしゃらしゃら舞っておりますと、やがてそこは楓散る寺院でありました。
「あらあらまあまあ、美しいお嬢さん、こんにちは」
 楓の映える美しい寺院。どこから声がするのだろうと蝶が見回しますと、秋風に真っ赤な葉を揺らす楓が声をかけてくれていたのでした。地面はまるで真っ赤な絨毯のようです。美しい木の葉の間をすり抜けて蝶が風を楽しむうち、黄色く透き通っていた翅は赤色を得ることになりました。光の当たる加減で、赤にも黄にも輝きます。
「まあまあ。赤色と黄色ですっかりあなた、秋の蝶ね。秋のお嬢さん、今からどこへ行くの?」
 ガラスの蝶は楓にも、友達を作る旅に出ることを話しました。
 楓は「あらあらあら!」と嬉しそうです。
「そう、お友達を。いいわね、素敵ね。ふふ、あら、お友達というのは初めて? 簡単よ。こうして私と貴方が出会って、ご挨拶をして、一緒に遊んだらもうお友達だわ」
 ガラスの蝶は頷きました。何て素敵なお友達のできたことでしょう。
 嬉しくなってガラスの蝶が舞おうとしたとき、もう一度秋風が吹いて参りました。
「では秋の蝶のお友達、お元気で」
 ガラスの蝶は風に乗り楓に別れを告げますと、ひらひらふらふら、まだまだ散歩を続けます。さて、素敵なお友達はできました。お友達の作り方も知りました。しかしこの国には夏の町も冬の町もあるのだと知ると、もっと色々の珍しい素敵なことに出会えるのではないかと思えたので、赤と黄色とオレンジの溢れる秋の町をめいっぱい散歩して、それから外の町にも行ってみようと考えておりました。
 やがてガラスの蝶は黄金色の田んぼの近くにつきました。辺りに飛び交うとんぼは立派な赤の、アキアカネばかりであります。
「こんにちは、こんにちは。秋の蝶のお嬢さん。秋のお嬢さん。これからどちらへ?」
 アキアカネに問われ、秋色に染まったガラスの蝶は首を傾げました。
 さて、どうしましょう。お友達を作る素敵な旅をする。そのことは決まっておりましたが、東に行くのも南に行くのも、特別決めていなかったのです。銀杏にも、どんな町だか聞いておりませんでした。
 ただ、とっても素敵な旅をしたいのだと言うと、アキアカネは大きな目をぐりぐりさせながら、教えてくれました。
「そうか、そうか。こちらから南に行けば夏の町。大層暑いが面白いものも多い。東に行けば冬の町。大層寒いが他の町では見られぬ『雪』が見られる。何でも真っ白で花弁のようにはらはら舞い、美しいという」
 夏の町、冬の町。どちらも大層魅力的です。
 けれど何となく、ガラスの蝶は「冬の町」に惹かれました。雪。花弁のような真っ白なもの、いったいどんな姿でしょう。熱い熱いガラス工房で生まれましたから、寒いというのがどんなものかも知ってみたかったのです。
 楽しみになってきたガラスの蝶はアキアカネにお礼を言いますと、東に向かって飛び始めました。冬の町に行くことにしたのです。

 東へ、東へ。ガラスの蝶がどこまでも続く黄金色の田の上を、しばらく行った時のことです。
「わっ」
 誰かの声がしました。そしてひんやりと冷たい、何かにぶつかるような感覚を覚え、ガラスの蝶は空から落ちそうになりました。
「ああ、すまない。すまない。ぼうっとしていたようだ。怪我はないかい」
 姿が見えないのに、どこからか落ち着いた優しい声がいたします。ガラスの蝶はきょろきょろと大きな目で見回して、ようやく気付きました。それはガラスの蝶と同じく透き通った羽の大変美しい蝶でした。ガラスの蝶が赤にも黄にも輝く秋色の蝶なのに対し、こちらの蝶は薄い青色が秋の日に透けています。
 何と美しいことだろう。しばらく見つめてしまった後、ガラスの蝶ははっとして、ぶつかった非礼を詫びました。彼ももう一度お詫びしてお互いに怪我のないことを確認すると、二匹の蝶は何となく、互いにまじまじと見つめ合い、やがて笑うようにひらひら飛び合いました。
「いや、失敬、失敬。僕のような氷の蝶以外にも、透明な翅の蝶がいるなんて思いもしなかったものでね。こんなこともあるものなのだな」
 彼にとってガラスの蝶が初めてだったように、ガラスの蝶にとっても氷というのは初めてでした。鏡写しのようにお互い観察しながら、ガラスの蝶は氷というものが冷たいながら美しいのだと知りました。
 やがて氷の蝶はガラスの蝶に問いました。
「そうそう、君はいったいどこへ行くんだい。随分急いでいるようだったが」
 ガラスの蝶はあっと思い出して、冬の町に「雪」を見に行くのだと、友達を作る素敵な旅をするのだと告げました。そうすると意外なことに、氷の蝶はうーんとうなってしまいました。
 おや、どうしたのでしょう。ガラスの蝶が思ううち、氷の蝶は冬の町かあ、と渋い声で続けます。
「冬の町、冬の町かあ。僕はお勧めしないな。あそこは大変厳しく寒い町で、吹雪もひどいのだ。ええと、氷の王という恐ろしいやつが住まっているが、そいつが雪をあんまりひどくするので、とうとう僕もあまりの寒さ、冷たさに逃げ出してきたところなのだよ」
 氷の蝶は困ったように話します。ガラスの蝶はそう言われてしまうと少し恐ろしい気がして、迷いが出てきました。
 ガラスの蝶のしゅんとした様子に気づいたのか氷の蝶は慌てて続けます。
「どうだい。夏の町に行っては。僕も実は、今から夏の町に行ってやろうと思っているんだ。暑いというのがどれほどのものかと思ってね。……ああ、氷の僕が心配かい? 大丈夫さ。僕のは特別製の氷の翅だから、決して溶けることなどないんだよ」
 氷の蝶は美しい翅を自慢します。ガラスの蝶はすっかり気が変わって、氷の蝶と一緒に夏の町に行ってみる気になりました。夏の町も楽しそうですし、氷の蝶は知識屋のようですからきっと色々の素敵なことに出会えるでしょう。
 ガラスの蝶が一緒に行こうと告げると氷の蝶は少し驚いて、そして嬉しそうに頷きました。
「一緒に? えっ、僕と一緒に行ってくれるのかい。ありがとう。実を言うと、秋の町の勝手が分らなくて難儀していたのだ」
 秋色を纏ったガラスの蝶と氷の蝶は、南にある夏の町へ向かいました。



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