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夏の町に遊ぶ蝶

 南へ、南へ。ひらひらと透明な二匹の蝶が飛んで参ります内、少しずつ暑さが増してくるようでした。
 ようよう到着し、氷の蝶は感慨深そうに呟きました。
「これが夏の町か」
 清々しいほどの青い空と、真っ白で大きな雲を持つ夏の町。空に映える濃緑の山が遠くに見え、緑豊かな梢の下を行き交う人々は皆色とりどりの薄手の服からよく日焼けした肌を覗かせています。
 あちらこちらの店から響く人々の声。そして何より喧しいほどの蝉の声。
「ガラスの蝶。ここまで一緒に来てくれてありがとう」
 喧騒の中で氷の蝶は嬉しそうに言いました。
「僕はこれからひまわりを、花火を、蛍を見たい。夏の日差しを浴びた海の上を、雪に覆われぬ緑の山を飛び回りたいと思っているんだ。……え?」
 ガラスの蝶は、氷の蝶の言葉に目をきらきら輝かせました。
「何だって。君も一緒に行きたいというのかい」
 氷の蝶は驚いています。しかしガラスの蝶は、ひまわりも花火も、蛍も海も、大変楽しそうだと思ったのです。そして何より、一匹より二匹で楽しめたら素敵だろうと思ったのでした。
 氷の蝶はしばらく思案していましたが、やがてくすっと笑うと嬉しそうに返事をしました。
「もちろん大歓迎だよ。共に行こう」
 二匹は夏の町に繰り出しました。

​ まず二匹は青々とした緑の山を目指しました。ガラスの蝶は赤や黄に染まった山を知っていましたが、緑の山は初めてのことで、それは氷の蝶も同じのようでした。
 おや、あれは何でしょう。緑の山へ近づくにつれ、ガラスの蝶の翅にも似た黄色の花がちらちら見えてきます。もっと近づいてみると、それらは黄色というよりも黄金色に近い大きな花で、太陽をじっと見上げているようでした。それが何本も何本も、まるで絨毯のように広がっているのです。
「やあ。あれがひまわりというやつだ。何とも美しいじゃないか。山へ行く前に、少し寄っていこう」
 氷の蝶の言うまま、ガラスの蝶はひまわりに引き寄せられるようにその大きな葉っぱへと舞い降りました。
 大きな緑の葉から見上げれば、何とも立派な黄色の大輪です。銀杏の黄色も美しかったのですが、夏の元気な黄色も大変美しいもので、ガラスの蝶はしばらく花の周りを離れがたく思いました。
「君の翅は不思議だね。ここへ近づいた途端、美しい黄色一色へ染まったじゃないか」
 ガラスの蝶の翅は、先ほどまでの赤と黄の秋色から、元気な夏の黄色へと変わっていました。どうも彼女の翅は、好きだと思った色に染まりやすいようです。
 美しい色が嬉しくて、ガラスの蝶は自慢げにくるりと一回宙返りをして見せました。
「やあこれはこれは。楽しんでくれているようで何より!」
 ガラスの蝶がくるりと回って見せた途端、ひまわり畑の中央から、元気な女性の声がいたしました。
 オレンジのリボンの麦わら帽子にノースリーブの白いシャツ。空のように真っ青なスカートとひまわりのあしらわれたサンダル。大きな帽子で顔は見えませんが、立ち姿の大層美しい女性です。
 誰だろうとガラスの蝶が思う間に、氷の蝶は驚いた様子でぽつりとつぶやきました。
「……青空の。何故『ここ』に」
 さすがは物知りの氷の蝶、誰だか知っているようです。
 ガラスの蝶は感心して氷の蝶を見つめました。青空の、と言われた女性は元気な声でカラカラ笑います。 
「『何故ここに』はご挨拶だな、氷の……、おおっと、氷の蝶」
「……」
「それにしてもきれいな黄色の蝶だ、ひまわりみたいだな。ははあ、こんなに素敵なお嬢さんを連れてデートというわけかい?」
「か、からかうな、そんなわけがないだろう」
「はっはっは、結構結構。遊びは必要だ、特にあんたのような真面目者にはな! 美しいガラスのお嬢さんも存分に楽しんでくれたまえ!」
 彼女はそれだけ言うと手を振って、まるで幻のように消えてしまいました。
 氷の蝶は苦々しそうな、気まずそうな、それでいて照れたような様子で「はあ」とため息を吐きます。知り合いでしょうか。ガラスの蝶の様子に気づいたのか、氷の蝶は説明してくれました。
「今のは青空の女王というのさ。おせっかいなのは困りものだが、彼女が笑えば空は輝き、泣けば夕立、怒れば雷を降らせる不思議な力がある。……ほら、太陽が一層輝いただろう」
 言われてみれば夏の町の青空はさらにその輝きを増して燦燦と照りつけています。ガラスの蝶は納得し、やはり氷の蝶は物知りだなと思いました。
 彼についてきたのは間違いではなかったようです。
「そんな。物知りなんてものじゃないさ。君より少しばかり長く生きているだけのことだよ」
 氷の蝶は照れた様子でうろうろあたりを飛びますと「さあ」と目の前に迫る緑の山を仰ぎました。
「さあ、そんなことより緑の山はもうすぐだ。僕は雪をかぶらぬ山に入るのは初めてなのだ。楽しみだね」
 ガラスの蝶はひまわりの黄色と、秋の町から連れてきた色を交互にきらきらさせてうなずきました。

​ ひまわり畑のすぐ近くにある緑の山。入れば驚くほどに涼しくて、蝉の喧騒もほとんどありません。ガラスの蝶が翅を緑に染めながら、ようやくその頂上へたどり着いた瞬間、蝶たちは眼下に広がる景色に息を呑みました。
 見たこともないほど広大な青色。海です。夏の日差しを受けてきらきらと反射する様は、空ともまた違う宝石のようですらありました。
「ああ。あれだ。あれが海だ。湖とは違い、冬にも凍らぬという美しい海だ」
 氷の蝶の感慨はひとしおのようでした。
 蝶たちは早く間近で見たいのもあって、何となく競争をしながら、海まできらきらひらひら飛んでいくのでありました。
 
 そうこうするうちにたどり着いた海は、間近で見るとまた色も違って、何よりも広大でした。
 ガラスの蝶がどこまでも続くその景色に見惚れていますと、氷の蝶は楽しそうに声をかけました。
「君は海も好きなのだね。ほうら、今度は翅がすっかり青色だ。ふふ」
 氷の蝶はガラスの蝶を見つめます。映したのは空の色か海の色か、ガラスの蝶の翅はすっかり青に染まっていました。
 自分の薄青に似た色が嬉しいのかじっくり見ようと氷の蝶が近づいてくるのを、ガラスの蝶はからかうように逃げ回ります。
「あっ。逃げるのはずるいぞ」
 気づけば蝶たちは広い海の上でひらひらと追いかけっこをして、人々から注目を集めていました。
 白い砂浜と打ち寄せる波、じりじり照る太陽が一層彼らを活発にしたようでした。
「ああ、楽しい。何と楽しい夢だろう! 君のおかげだよ!」
 氷の蝶が耐えかねたように叫び笑い、何となく小休憩になった時には、もうすっかり夕方でした。
 先ほどまであんなに青かった海ももう夕焼け色に染まっていて、ガラスの蝶は空の色を映す海を、自分の翅によく似ているなと思いました。
 ガラスの蝶の翅は夕焼けのオレンジすらも映して、光の加減で何色にも見えるようでした。
 氷の蝶はガラスの蝶の翅をじっと見つめておりましたが、やがてその小さな首を振り、元気にガラスの蝶を誘います。
「ああ、ずいぶん遊んだ。しかし、まだまだ、夏の町にはいっぱい楽しみがある。夜には蛍や花火、これまた美しいものがたくさん見られる。君も疲れたろう、取り敢えず先ほどの山へ戻ろう、あそこは涼しいからね」
 そうして先導する氷の蝶でありましたが、どうもその翅が少し傾いだように見えて、ガラスの蝶は「おや」と思いました。氷の蝶も、疲れているのではないでしょうか。
 ガラスの蝶がその場で止まったまま、じいっと氷の蝶に見入っておりますので、不思議に思ったらしい彼は振り返って笑いました。
「どうしたんだい。そんなに見て。ははあ、さては僕が氷の蝶だから、溶けやしないか心配なのだろう。なあに心配ないさ。僕のは王謹製の氷だから、こんなに暑くたって溶けやしないんだ」
 氷の蝶は自慢げです。少し心配はありましたが、ガラスの蝶は彼がそんなに言うのなら大丈夫だろうと氷の蝶の後ろを追っかけて行きました。
 そうして今度は山へひらひら飛んで、さらさらという音の聞こえる小川の近くまで来た時のことです。氷の蝶は「あっ」と一声出すと、ふらふらとしながら、柔らかい草の上に落ちて行ってしまいました。
 ガラスの蝶は慌てて近くへ舞い降りましたが、どうも気を失っているようで、目を覚ます気配もありません。
 夏の町の夕方には、昼の蝉とは違う虫の声が響き始めていました。

​​​ さらさらと流れる小川。辺りはすっかり真っ暗です。ガラスの蝶は小さな葉を一枚摘み取りますと水を汲み、雫を零さないように木蔭へ運びます。
 大きな樹の下では、夏の暑さにすっかりやられた氷の蝶が休んでいるのでした。ガラスの蝶はやっとの思いで氷の蝶を木蔭まで運んで、今度は何度も水を汲みに行っているのです。
「すまない、すまない……」
 気の付いたらしい氷の蝶は先ほどから、うわごとのように弱々しく呟いております。なるほど特別製の氷は確かにちっとも溶けてはいないようで、ガラスの蝶は安心いたしました。
 やはり彼は夏の町に来られた嬉しさではしゃぎすぎたために、すっかり調子を崩してしまったようなのでした。
 ガラスの蝶は葉っぱで運んだ何度目かの雫を氷の蝶に飲ませてやります。
「ああ、美味しい水だ。君には世話をかけるね、すまない」
 氷の蝶は何度も謝ります。ガラスの蝶は友の世話をするのは当然だと、笑うようにはためきました。
 何でもないことのつもりでしたが、氷の蝶は木陰からがばと跳ね起きて、もう一度雫を汲みに小川の方へ戻っていたガラスの蝶の傍までふらふらやってきました。
「そんな、そんな。君はこんな、旅の連れになっただけの蝶を友と呼んでくれるのかい。そんな簡単に、君の友となっていいものなのかい」
 ガラスの蝶はその透明な触角を傾げました。何故氷の蝶がこのようなことを聞くのかがわからなかったのです。
 友達とはそんな難しいものでしたでしょうか。秋の寺院の真っ赤な楓はお友達とは簡単だと、出会って、挨拶して、一緒に遊べばお友達だと言いました。
 だからガラスの蝶は氷の蝶とはもう充分な友達だと考えていたのです。
 氷の蝶は大きな瞳をさらに大きくしてじっとガラスの蝶を見つめています。しかし怒っている風でもありませんので、ガラスの蝶は頷きました。
「そうか。共に旅し、共に遊んだから。僕たちはもう充分に友だと。そうか、そういう……」
 氷の蝶は何かぶつぶつ呟きながら、またふらふら木蔭の方へ戻ります。
 熱に浮かされてしまったのではないかと心配になったガラスの蝶は雫を運びがてら彼についていきました。
 泣きそうな声色で氷の蝶は独り言を呟きます。
「友か。友ができたのか。……。君のような蝶と出会えて、こんなに素敵な夢が見られたんだ。もう冬の町に戻ったっていいのかもしれない……」
 冬の町。色々な土地に行ってみたいガラスの蝶にとっては嬉しい言葉でした。
 しかしすぐに氷の蝶は首を振りました。
「あっ、聞こえていたのか。……すまない。まだ僕はもう少しだけ、この夢の時間を……。いいや、何でもない。氷の王は恐ろしい人なのだ。起きればまた猛吹雪さ」
 ガラスの蝶はまたも触角を傾げました。やっぱり、氷の蝶は冬の町が好きではないのでしょうか。それに、氷の蝶がよく口にする「夢」というのはいったいどうした意味でしょう。
 ガラスの蝶は少しばかり不思議に思いましたが、事情があるのだろうとあまり強い詮索はいたしませんでした。
「その。ええと。友よ、ガラスの蝶よ。君さえよければ、春の町へも行ってみないか」
 何より、氷の蝶が照れつつもしてくれた魅力的な提案に、ガラスの蝶はこの物知りな友ともう少し一緒に過ごしてみたいという思いも重なって、すっかりそんな疑問を忘れてしまったのでした。
 遠くからは花火の音が響いていました。

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