top of page

春の町で迷う蝶

 夏の町から東へ東へ飛んで行けば春の町にたどり着きます。
 二匹の透明の蝶たちが街道を飛んでおりますと少しずつ暑さが緩んできて、やがて彼らの翅にひらひらと薄紅色の花弁が絡み始めました。
 少し自慢げに氷の蝶は説明します。
「知っているかい、友よ。これは『桜』というのだ。春の町は花の色をいろいろに染める花の女王が住まっているから、きっと今日もこんなに美しく染めたのだろう」
 ガラスの蝶は嬉しそうに、桜の花弁とダンスを踊ります。
 透明の翅は桜の花弁を映し、薄紅色に染まりました。
「ああ。まるで桜の蝶のようだね。しかし春の町は大変激しい風が吹くから、気をつけておいで」
 物知りな氷の蝶の言葉を聞きながら辿りついた春の町は大変美しいところでした。遠くの山は桃、梅、桜が咲き乱れ濃紅と薄紅のグラデーションを作り、ふもとの菜の花畑の上では紋白蝶たちが楽しそうに飛び交います。
 地面の花は色とりどり七色に咲き、虫たちは花の蜜を吸って皆でダンスを踊っています。
 人々はのびのびと農作業をしていて穏やかな様子です。ガラスの蝶は色とりどりの花々が嬉しくて、さあどこから行こうかと体をうろうろさせておりました。
 氷の蝶はそんなガラスの蝶の様子を見てふふふと笑います。
「やはり、君と一緒だと楽しく、一層美しく見えるなあ。君という友がいて僕は……。……あっ、君!」
 氷の蝶が呟いた、その時でした。まるで嵐のような風が吹いて、ふらふらしていたガラスの蝶をさらってしまったのです。
 元より蝶が風に逆らえるはずもありません。ただ一匹残された氷の蝶はしばし呆然としておりました。ややあってからはっとしたようにすごい速さでガラスの蝶を追いかけたのですが、もうその時にはとうに大風も過ぎ去ってしまっておりました。
 
 春の町の大風はガラスの蝶の体をあっという間に遠くまでさらってしまいます。
 ガラスの蝶も突風の中で目を回し気を失ってしまいましたが、しばらくして柔らかいものに当たるような感覚と、どこからか美しい歌声がかすかに聞こえてきたので目を開きました。
 ここはどうやら、真っ赤なチューリップの中のようです。背中に花粉はついておりましたが、体にはヒビ一つありません。
 ガラスの蝶は花弁からそっと顔を出し、そして目の前に広がる光景にその大きな硝子の目玉を瞠りました。
「初めまして、ガラスの蝶」
 目の前には、美しい人間の女性。きっと先の軽やかな歌声の持ち主でありましょう。そして何よりも驚いたことは、目の前に広がる七色の花畑であります。
 ガラスの蝶が目を輝かせているのに気づいたのか、女性は美しい声で楽しそうに笑います。
「気に入ってくれたようで何よりだわ。今日からここはあなたの家よ」
 ガラスの蝶は首を傾げます。どうやら彼女も青空の女王と同じで、普通の人間とは少し様子が違っているようでした。
 いえ、形そのものは人なのでありますが、大きな瞳は黒目がちでつやつや光り、その背には七色に輝く大きな蝶の翅を持ち、頭からはガラスの蝶とお揃いで、触角が二つ生えております。
 濃紅から薄紅のグラデーションで一色に染まる美しいワンピースから伸びる腕や足は真っ白。まるで不思議の妖精のような姿です。
 その美しい妖精は歌うように続けます。
「私は花の女王。あなたは秋の町で玻璃の王に作られたのでしょう。噂を聞いて、待っていたの。……あら? それどころではなさそうね。お転婆なこと」
 くすくす笑う花の女王に体を撫でられながら、ガラスの蝶は恥ずかしくなりました。
 この七色の花畑で遊びたいと考えていたのがバレてしまったのです。しかし花の女王はおかしそうに笑うと「おいでなさい」と花畑に案内してくれました。
「私はあなたを最も美しくすることができるわ。私たち、きっといいお友達になれると思うの」
 ガラスの蝶は友達の増える予感にわくわくするばかりでした。

 ガラスの蝶の行方を見失い、一匹取り残された氷の蝶は春の町を彷徨っておりました。
 野は春の光に照らされて美しい景色を見せていますが、全く目に入りません。ガラスの蝶の行方が心配でならなかったのです。
「ああどこへ行ってしまったのだろう。誰か見たものはいないだろうか。怪我でもしていたら」
 氷の蝶は慌てて菜の花で遊ぶ紋白蝶に、花とダンスする蜜蜂に問うてみたのですが、誰もその行方を知らないようなのです。
 あんまりの狼狽えぶりにか、一匹の紋白蝶がこう提案しました。 
「この辺りのことなら、花の女王に聞いてみるのはどうかしら。女王は何でも知っているわ」
「ええ、それがいいわ。私たち蝶にはとても優しいもの」
 友らしい紋白蝶も賛同します。花の女王はとても慕われているようです。
「花の女王か……」
 しかし、氷の蝶は気乗りがしないらしく苦々しい声で答えました。紋白蝶たちは不思議そうに見つめています。氷の蝶ははっと気づいたようにその視線を躱し、ありがとうと礼を言ってその場を離れました。
 ぶつぶつと、氷の蝶は低く重い声で独り言を呟きます。
「花の女王は青空のと同じく『私』のことを知っているのだろう。夢なのに厄介なことだ。……しかし、本当に夢なのか……? そうでないなら……」
 氷の蝶は悩むようにうろうろと辺りを飛んでいます。行き交う蝶や蜜蜂が不思議そうに見つめていますが、全く意に介さないようです。
 しばらく悩んでいた氷の蝶は急にぐりんと体を返し、決意したように言いました。
「ああ、バカ者め、何を『僕』は迷っている。初めてできた、唯一の友の危機なのだ。夢だろうが現実だろうが、彼女が友と言ってくれたことに違いはないのだ。迷うことか!」
 氷の蝶はそう自分に言い聞かせると、まるで目当てが分かったように、目にも止まらぬ速さで一目散にどこかへ飛んで参ります。
 何とも不思議なことに、氷の蝶は花の女王の居場所を知っていたようでありました。

 花の女王とガラスの蝶は、七色の花畑で色々遊びました。
 女王も氷の蝶に劣らず知識屋で、ガラスの蝶の知らない花の名前も、花のアクセサリーの作り方も教えてくれました。そして春の町の大風についても上手なかわし方を教えてくれるのでした。
「そっと寄り添うのよ。何でもいいの、花でも葉の裏でもいいわ。寄り添うようにして、風のやむのを待つの。正面から逆らっては、あなたがケガをするわ」
 そうして一人と一匹はかくれんぼと鬼ごっこをいたしました。
 遊ぶうち、ガラスの蝶の翅は春の花を映し、七色にきらきら輝き始めました。先から翅にじいっと見入っていた花の女王はガラスの蝶へそっと柔らかい指を伸ばして参りましたので、ガラスの蝶も応じるようにその指先に止まりました。 
「ねえ、七色のガラスの蝶。どうか私のお友達になって、この町にずっといてくれないかしら? 私はあなたの美しさをずっと見つめていたいの」
 何と嬉しい申し出でしょう。この美しい花畑にずっと住まう。工房のおじさんは素敵な旅をと言いましたが、こんな素敵な花畑に住まうことができるなら、それはそれで楽しそうです。ガラスの蝶は喜ぶように翅をはためかせました。花の女王も嬉しそうに笑います。
 ああ、でも。ガラスの蝶は考えます。もし住まうのであれば氷の蝶も一緒にいられたらもっと楽しいことでしょう。彼は物知りですから、きっと色々のことを教えてくれるに違いありません。夏の町のことも春の町のことも教えてくれたのです。大風のことも知っていました。
「ねえ――」
 そう言えば氷の蝶は、今頃どうしているだろう。行き先も言わぬままにはぐれてしまいましたが、また調子を崩してはいないでしょうか。彼は少し良い格好をしたがるところがありますから、心配です。
 ガラスの蝶がぼんやり考え込んでいる内に花の女王はもう一つの手で彼女を捕まえようとしておりました。白く柔らかい手をガラスの蝶へ覆い被せようとしておりますが、ガラスの蝶は気づきません。そして今やその手が彼女を捕らえんとした瞬間、険しい声が割り込んできました。
「歓談中すまない。と言っても、君が一方的に喋っているだけのようだけれど、花の女王」
「あら。これは氷の、……嫌われ者の、氷の蝶。ふふふ」
「……」
 花の女王は意味ありげに笑い、ガラスの蝶を捕まえようとしていた手を離しました。ガラスの蝶ははっとして、氷の蝶を振り返ります。もしかして探してくれたのでしょうか。何と嬉しいことでしょう。
 ガラスの蝶の考え事をよそに、花の女王はガラスの蝶の止まる指先を氷の蝶へ突き出しました。
「蝶は春に属するものよ。たくさんの色に染まることのできる彼女は、花の女王である私にふさわしいわ」
「彼女は秋の町に、僕は冬の町に生まれた蝶だよ。全ての蝶が春の町にいるわけでもないだろう、そういうところは相変わらずだ。……僕たちは旅の途中なのだ。すまないが僕の友を返してほしい」
「まあ。ただ一緒に旅をしているだけでしょう。お友達というなら、私だってそうだわ。それに、ふふ、あなたのその偽りの姿! ああ、冷たく厳しい孤高の王がおかしいこと!」
 ふふふと花の女王はおかしそうに笑います。
「……」
「それでよく友と言えるわね」
 花の女王がそう勝ち誇ったように言った途端、ガラスの蝶は花の女王の指先から飛び立ちました。
「あら。どこへ行くの。ここへ住まってくれるのじゃないの? ほら、ここにはこんなに美しい花畑があるのよ。あなたはここに居れば、もっと美しくなれるわ」
「……君」
 花の女王は少し険しい口調で追いかけてきますが、その言葉はガラスの蝶に届きませんでした。
 氷の蝶が自分を探してくれたらしいことが嬉しくてつい飛び立ってしまったのです。それに何も言わずに別れて心配をかけたことも、謝らなければなりませんでした。
「君は本当に、いつも、驚かせてくれるね。気にしてくれたのかい。……大丈夫だよ。君がいれば僕は大丈夫」
 氷の蝶は、ガラスの蝶を背に庇いながら花の女王に向き直りました。
「……そうだな、嫌われ者の氷の蝶だが、どうやら彼女はついてきてくれるらしい。僕らは今から、冬の町へ行かねばならないから、失礼するよ」
「まあ。まあ。冬の町なんてかわいそうに。お嬢さんが吹雪に凍りついて死んでしまうわ」
「そんなことさせないさ。……行こう」
「あっ」
 氷の蝶は花の女王に背を向けます。彼が行ってしまったので、ガラスの蝶も続いて、花の女王にお別れの挨拶をいたしました。
 七色の花畑は大変魅力的でしたが、やはり、もしも住まうなら氷の蝶も一緒がよかったのです。
 だからこそ、またいつか会いましょうと花の女王に告げ、花畑を後にしました。
 花の女王はガラスの蝶を呆然と見ていましたが、そうして二匹を見送った後、おかしそうにくすくす笑い出しました。

 七色の花畑から離れてしばらくしてから、ガラスの蝶は急にいなくなってしまったことを謝り、また探してくれたことのお礼を言いました。
 氷の蝶は初めきょとんとしていましたが、やがて嬉しそうな声色で言いました。
「いいや、そんなことは言いっこなしだ。僕だって助けてもらった恩がある。何より僕は、……その、本当に嬉しいのだ。君がここに住まうのではなく僕についてきてくれたことが」
 ガラスの蝶はその大きな目をぱちくりさせ、秋夏春を吸い込んで七色に染まった翅を揺らしました。そう言えば何となく、氷の蝶と一緒にいるのが当たり前になっているようです。花畑に住まうか問われた時も、まずは氷の蝶のことを思い浮かべていたことにガラスの蝶は気づきました。たくさん一緒に旅をしてきたからでしょうか。不思議なことに、どんな美しい景色であっても氷の蝶と共にあるのが自然であるように思えたのです。
 何とも素敵な友ができたものだ。そうガラスの蝶が思っておりますと、いつも自信満々の氷の蝶は珍しく、そわそわしながら問いかけました。
「それで、その、友よ。一つお願いがあるのだが」
 ガラスの蝶はその透明な触角を傾げます。しばらくして決心の付いたように、氷の蝶は言いました。
「君に、どうしても会ってほしい人がいる。だから冬の町に。僕の故郷についてきてほしいのだ」
 ガラスの蝶は大喜びで頷きました。元より「雪」とはどんなものかを知りたかったのです。


bottom of page