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銀杏の夏の隆々たる

 あれは何の木であったか。
 思えば銀杏の色づく前の、夏の隆々たる姿であったようでもあるが、はっきりしない。
 記憶の既に遠い幼い頃。
「――理緒ちゃん」
 蝉がやかましく停まっていた。

 

 取り壊しの日に戻ってくるなどは物好きだと、母が努めて明るく言う。休職と伝えたせいか突然の帰省の理由を深く聞こうとはしなかった。
 理緒が心身を患ったのは恐らくここ一年ほどのことであるだろう。確信が持てないのは当の本人にも自覚がないままじわじわと体が弱り、とうとう床から起き上がれなくなったためだ。
 理解ある上司に休職を命じられて一ヶ月、初めは置かれた状況に絶望と抵抗とを感じたが、却って迷惑であるとのかつての同僚の言葉に出社もできず、のろのろと家で動けぬ日々を送っている間に、様子伺いの電話をくれた友人がカウンセリングなるものを手配してくれた。
 また実家に戻るように助言してくれたのも彼女である。虚ろなままの状況を脱したく、その言葉に従って今に至る。
「荷物だけでもしまってきな」
 命じられている方が気が楽だった。
 何が入っているわけでもないキャリーケースを自室へ運ぶ。足を進める度に古い板敷きの縁側が重苦しく軋んだ。
 真夏であった。
 空調の利いた硝子戸の中から外を見れば、かんかんと日が照り、蝉は盛りとばかりに鳴き叫ぶ。
 生い茂る緑と空の青さが却って白々しい。
 時計は真昼を指している。
 本来であれば社で働いているはずの時間だと、鼓動はまるで肺腑を棒きれで叩くように強く響く。芯から冷え冷えとする感覚は空調のせいだけではないだろう。
 紛うことなく実家である。何故自分はここにいるのか。何度目か知れない絶望が襲ってくる。つい足を動かすのが億劫になり立ち止まると、硝子戸の向こうに、背の高い木の下に少年のいるのが見えた。
「――××ちゃん」
 理緒にはその正体の見当が容易についた。
 麦わら帽子に青いシャツの彼は幼い頃遊んだ服装そのままで、まるで戦でもするかのように真剣な面持ちで虫取り網を構えている。息を殺し、慎重に、それでいて期待に目をきらきらと輝かせているのが見ているこちらにも伝わった。
 ――それっ。
 そんな掛け声すら聞こえるように唐突に、真白の網が宙を切り、間を置かずくるりと捻られる。理緒の祖父秘伝の、蝉取りの術。
 やがてジジジジッと獲物の声が聞こえて、彼の無言の勝鬨が聞こえてくるようだった。
 思えばあれは蝉のよく停まる木であり、理緒の縄張りであった場所だ。
「理緒、どうしたの」
 母に声をかけられて、理緒ははっとしたように振り返る。硝子越しにもう一度彼を見ると、立派な枝ぶりに緑が生い茂っていたはずのあの銀杏の木ごと、姿が見えなくなっていた。
「お母さん、あの木は」
「どの木? まあどれも、離れを取り壊す前に全部伐ってしまったけれど」
 母の言葉に理緒はひそかに落胆する。
 白昼夢でも見たのか、それともこの、自分を蝕む病がとうとう幻影でも見せ始めるほどに進行してしまったのだろうか。
 やかましい蝉の声の中で、理緒は変わらず動けぬままに立ち尽くしていた。
 
 荷物をようよう運び終え、慣習のままに線香を立て、仏壇に手を合わせる。一連の儀式的な作業を終えると、理緒はそのまま仏間に寝ころんだ。
 何もしていないにもかかわらず疲れが重苦しくのしかかってくる。ああ、またかと彼女は観念したように目を閉じた。
 理緒は愚鈍ではなく、むしろ聡い方であったから、今自分を襲っている病が心を起因とするものであり、いくつかの投薬とカウンセリングという名前の療法でしばらくすれば治り、また休職時期が明ければ会社に戻らなければならないこと、また「少し疲れただけ」であるからそう長い期間は要しないであろうことを薄々感じ取っていた。
 ただ、体が言うことを聞かないときは聞かないもので、その対応に苦慮し続けている。
 悶々としながら、動かぬ体に毒づきながら、ぐるぐると回って見える天井を見るとなしに見上げる。蝉の声と冷房のしずしずとした機械音の中、小気味良い包丁の音がかすかに聞こえてくる。昼食は冷麺のようだ。
 やがて縁側の硝子戸が開いたような気がして目を遣ると、先の少年が驚いたようにこちらを見ていた。
「××ちゃん」
 彼のことを呼んだのは自然であった。
「理緒ちゃん、どうしたの」
「疲れちゃった」
 言いながら起こした我が身は驚くように軽く、――そして小さかった。
 理緒の幼い声に少年は安堵したようで、不思議と焼けていない肌から小さな歯を覗かせる。
「蝉取りに行こうよ」
「うん。いいよ」
 回答があっさりこぼれたことに理緒は何の疑念も抱かなかった。むしろ、こう答えることが、彼を認識するのと同じくらいに、自然ですらあった。
 理緒の実家の庭には多くの種類の木が植えてあった。しかし生け垣の役割をしている「どんぐりの木」や魔除けだという細い南天の木は蝉の取り場所としては不適で、狙い目は高くそびえる梨の木、または離れに足を伸ばせばある件の銀杏。
 理緒が離れを見やれば、夏の日差しを目一杯受ける緑の葉が眩しく見えた。
 ――よーい、ドン。
 二人は庭の中を縦横無尽に、無心に駆け回り、やがて虫籠を見せ合った。
 アブラゼミばかりの中に、まれにニイニイゼミが混じる。ニイニイゼミは珍しいので、これを二匹とアブラゼミを十匹捕まえた理緒が何度目かの勝利となった。
「また負けちゃったあ」
 庭先の大きな石に座り込む少年の隣へ、理緒もしゃがみ込む。しかし遠くの草からぴょんと跳ねたバッタの気配に、勝負の感慨はあっという間に捨て置かれ、今度は二人で大きな獲物を追い回すことになった。
 やがて太陽の南中する頃に、本宅から理緒を探す声。
「ごはんよー」
「ご飯の時間だ」
「じゃあ、また明日来るね」
 彼は背中を見せて、器用に庭木の間を通り抜け、飛び石を伝って消えていく。
 理緒は彼の消えた離れの方角を見やった。
 武骨な鉄の足場に囲まれ、緑色の網で覆われた、祖父母の住まい。多くの草木に囲まれていたはずの木造の家はかなり古ぼけて、かつての面影を残すのみ。
 今はもう誰も住まない。
 ――ジジジジッ。
 足元に転がる夥しい蝉の死骸の中から一匹、弱ったのが低く飛翔していった。
 ニイニイゼミのようだ。

 

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