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銀杏の夏の隆々たる

「外にいたのね」
 母の言葉を肯定するともなく聞き流し、理緒は自然と外にいた先程の自分を思う。
 彼に誘われ、気づけば庭をさまよっていた。幻か実体かなど、考えることもしなかった。
 今や大人しか住んでいないこの家には、虫籠も虫取網もない。
 考えてみれば、勝負の網を振るったのは事実だったろうか、理緒に思い出せそうもなかった。
「離れの様子を見たいなら、夕方からにしたら」
 理緒が外に出ていたのを母はそう解釈したらしい。「熱中症になるわよ」。それもそうだと理緒は頷く。
「工事、いつまでなの」
「離れの方? そうねえ、今日取りかかるってことだったし、二週間はかかるんじゃないかしら」
「そっか」
「お母さん昼から買い物に出るけど、夜食べたいものある?」
「何でもいいよ。ねえ、お父さんは今日も遅いの」
「お父さんそっくりのことを言うようになったわね。そうね、遅いんじゃないかしら」
 困ったように笑う母の顔はいつも通りで、理緒自身の病のことも休職での帰省という状況も束の間忘れ、まるでただこの家で暮らしていた時のような心持になる。
 涼しくなったら離れを見るのも悪くはないかと理緒はぼんやりそう思った。再び少年に会えるのではないかとの期待もあった。

 

 祖父が亡くなったのは七年も前で、祖母はその四年後に亡くなった。それでも最近まで家の取り壊しに着手しなかったのは、しばらくは喪に服す意味もあったが、家族全員が感じていた寂しさのせいもあるのだろう。
 本宅から庭続きになっている離れには、小さな畑が一つあった。その周りは多くの草花で囲まれて、理緒は多くの花の名、草の名、虫の名を祖父母から学び、また近所の子供たちともよく遊び、勝負した。
 離れの傍には草花だけではなく大きな銀杏の木が一本と、金柑の木が一本生えていた。
 ここは理緒の帰る、もう一つの家でもあった。
 だからこそ、もう一度幻想が見えるのではないかと理緒は期待していたが、どうやらそううまくいかないらしく、ただ掘り起こされた土がそのままになっているだけである。
 小さな木造の建物は武骨な鉄の足場で囲まれ、緑色の網に覆われ、まるで要塞のように物々しく、そして痛々しく見える。
 知っているはずのものが、何も知らない人々の手で勝手に取り壊される。目の前で、愛する人がじわじわとなぶり殺しにされてゆくのをただどうしようもなく見つめているのにも似ている。
 どうしようもない、後戻りできない光景。
 嗚咽を上げることができるほどの子供であればよかったと理緒はため息を吐く。
「××ちゃん」
 冗談交じりに呼んでみるも、大人の声が響くばかりである。逢魔が時には帰ってしまう幽霊など、と思ったあたりで、あれは幽霊でも何でもなく自らの病が見せた幻想でしかないことを理緒は思い出した。
 しかしなぜ、自分はあのような幻想ばかり見るのだろう。逃避であるだろうことは薄々勘づいていたが、さて何からの逃避なのかと聞かれれば答えに詰まる。果たして自分は何の逃げ場が欲しかったのだろう。
 何から逃げたくて、家に帰ってきたのだろう。
 日々のわずらわしさに違いない、と月並みな答えを導き出しておけば、今しばらくは幻想が目の前に現れてくれるような気がしていた。
 帰ろう。呟いて踵を返し、母屋を仰ぎ見る。母屋にも離れと同じ緑の網がかかっているような錯覚に捉われたが、どうせ幻影と理解しているせいか、さほど大きな衝撃は受けなかった。
 住む人がいれば、家を壊すことはないのだから。
 幻影の証拠に、母屋にかかっていたはずの緑の網は瞬きと共に消え去った。
 
 眠る前にもう一度、祖父母の居る仏壇に手を合わせる。亡くなって随分経つものだから当初の衝撃は和らいでこそいるが、幼い頃をほとんどそこで過ごした場所の今まさに変わり果てんとする姿を見た後だったから、どうしても手を合わせておきたかった。感傷的になっているのだとは、理緒も理解している。
 父母は昔から忙しい人ではあったが、――だからこそ理緒は幼い頃、祖父母の住まいでほとんどを過ごしたのだが――、理緒の感情に配慮してくれたし、母などは最後まで離れの取り壊しに抵抗もしてくれていた。理緒のためだけではなかっただろうが、帰る場所が、自分の帰るべき場所が確かにあることは安心できる材料であったことに違いない。
 住む人の亡くなったのに慣れたわけではない。
 ただ、大切な記憶のたくさん詰まった宝箱のような、大切な『場所』ごと消えてしまうのは、自分の一部をえぐり取られていくようで、どうにも――。
「お風呂の栓は抜いておいてね」
「はあい」
 甘えた声で理緒は答える。
 父はとうとう、理緒が眠りにつくまでに帰宅することはなかった。

 ツメキリソウ。ホオズキ。シロツメクサ。カタバミ。――ホトケノザは甘い蜜が吸えるが、似た形の草から蜜は吸えないので注意が必要だ。
 理緒は祖父母の庭の夢を見た。
 野蒜に留まって擬態しているバッタ。後ろからそっと近づいて捕まえるのが理緒の特技だった。祖母はバッタにタコ糸を結んで逃げないようにしてくれるのがうまかった。
 やがて大きな銀杏に蝉が停まる。祖父は虫取り網のさばき方を教えてくれる。
 この秘術は蝉だけではなく、蝶にも蜻蛉にも使える。
 祖母が家の中から呼ぶ。今日のおやつは何だろう――、喜び勇んで離れに入れば、相撲の中継を祖母は見ている。
 理緒の幼い頃の記憶に、忙しかった父母はほとんど出てこない。
 幼く幸せだった頃の、最も愛された頃の記憶は、全て祖父母が作ってくれていたもので、全てこの銀杏の庭で作られたものだった。
 
 理緒が目を覚ました時に、母はとうに姿を消していた。買い物か、近所づきあいか。起こしてくれても良かったが、帰省の事情が事情なので気を遣ってくれたのだろう。
 顔を洗い、朝食を取る。自室からバイブレーションがやかましく響いているような気がして、アラームの止め忘れだろうかと理緒は急いだ。
 果たしてアラームではなかったが、友人からの連絡であった。気づかなかったが、昨日より何度も電話をかけていてくれたらしい。助言に従って実家に帰っている旨を伝えると、一瞬の空白ののち、そちらに向かうとの言だった。
 急に現実に引き戻されたような気もして、拒絶の気持ちが湧き上がってくる。それでもこの、優しい友人を逃せば自分がとうとうどうにもならなくなることも分かっていたから、何とかにこやかに電話を終えた。
 しばらくは、呆然と座っていた。
 やがて、化粧をする気力を必死に奮い立たせ、どうにかこうにかファンデーションだけをはたき終えた時に玄関のチャイムが鳴った。
「早かったね」
「何ともなくてよかったよ。昨日、ちゃんとご飯食べた?」
「お母さんがいたから」
 そう、と友人は短く答える。帰ってもらいたい気持ちを必死に押さえつけ、理緒は彼女を仏間へ案内した。
 冷房の利いてひやりとした空間の中で、友人が仏壇に手を合わせるのを理緒はじっと見つめていた。
 やがて彼女は理緒に向き直る。
「一周忌は手伝うよ。お父さんも入院中でしょ、理緒は立ってるだけでいいから」
「……ありがとう」
 礼を言いながら、優しさを見せるようで現実を押しつけてくる友人に、ああ、この家に入れなければよかったと理緒は歯噛みする。
 まだ浸っていたかった幻を白昼夢を、彼女は何でもないことのように壊していく。
 友の前で絶叫し拒絶できるほど愚鈍であれば、あるいは子供でいられたらよかった。
 聡い大人となった理緒には、今自分が心を病んでいることも、ここに来てからのほとんど全てが、自身の作り出した陽炎であることも理解できていた。
 硝子戸の向こうで、蝉がやかましく鳴き始める。
 これは果たして幻聴なのだろうか。
 そも、母が亡くなり、父も入院し、維持する資金もないからという親戚中の優しくも冷ややかな提案を断りきれず、母屋も離れも全て取り壊すことに決まってから全てが狂い始めたようにも思える。
 この、自分の居場所を取り壊すことから。
 帰るべき場所を取り壊すことから逃げたくて、帰るべき場所へ帰ってきただけのこと。
「理緒、帰ろう。母屋も来月には壊すんでしょ。片づけなら手伝うから」
 親身な友人は耳障りに急き立てる。――どこに帰れと言うのだろう。
 優しくそれでいて無神経な思い遣りに脅されているような気がして、理緒は答えられぬまま目を閉じる。
 ふと、硝子戸が開いたような気がした。
「理緒ちゃん、どうしたの?」
 少年の姿が見える。
「疲れちゃった」
 幼い声で、幼い体のままに理緒は答える。
「蝉取りに行こうよ」
「うん、いいよ。――おじいちゃん」
 そういえば昨日、約束したのだ。
「理緒っ、どこに行くの」
 かんかんと日が照っている。
 そびえる銀杏の隆々たる枝に、蝉はやかましく停まっていた。

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