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憧憬は麻薬にも似た

 過去に随分と憧れていた俳優は薬物所持で逮捕された。
 好評を博した狂気の怪演は、本当に正気を失っていたからではないのかと調子のいいワイドショーが囃し立てた。
 彼が、彼の演じたような快楽殺人者でなくただの気違いであることは罪状からも明らかだったが、ワイドショーでの扱いは殺人者とそう違わなかった。
 徹の熱はその頃既に冷め演劇の道も諦めていたが、ただ、薄ぼんやりとした哀しさは感じた。
 
 ――兄なんです。
 まるで罪の告白でもするような面持ちで彼は言った。
「何がかな」
 徹が片方の眉を上げると、まるで恐ろしいものと対峙するかのような表情で彼は次の言葉を言い淀む。
 赤茶けた短髪、丸く愛嬌のある目と幼顔。「丸山英二」――、確かに苗字は徹の憧れていた俳優と同じであり、面差しも似ていた。
 だが英二自身から「誰と誰が兄弟なのか」をきちんと言わせることに面接の意味があった。
「結構前に捕まって引退した、俳優の丸山栄。兄なんです」
「そう」
「兄弟ですし、顔も似てるせいでご迷惑をお掛けするかもしれません。でも、一生懸命働きます」
 返事はせず、徹は彼の瞳を真っ直ぐ見据えたまま黙ってみせる。一瞬怯んだ彼に、何か嘘があるな、と直感した。
 徹は笑って彼に合否を告げる。
「それはこれから判断するよ」
「じゃあ」
「人手が足りないからね」
 閑散とした喫茶店であるとは言え、昼間はなかなか忙しい。何より、容貌の整った店員は客寄せになる。
「ありがとうございます! よろしくお願いします」
 英二ははち切れんばかりの笑顔を見せ、やがて深々と頭を下げた。
 その仕草は、かつて憧れた彼の演技とよく似ていた。
 
 憧憬も麻薬も幻想を見せる意味では同じなのだろう。そして幻想は決して現実にならない。
 今では充分すぎるほどその事が分かっている徹も、上京当時は幻想と現実の分別がつかない子供であった。
 親にはいい大学に入りたいから、勉強したいからなどと調子のいい嘘をついて、東京の大学へ滑り込んだ。
 真面目な学生ではなかったが、留年しないという親との約束だけは必死に守り、貯めていた金で演劇の養成所に通いつめた。
 憧れだけで進み続けられる道でないと気づくのに時間はかからなかったが、苦労をすればするほど「努力」しているのだと錯覚できた。
 アルバイトはいくつも掛け持ちした。
 才能がない、やめてしまえと言われながらも台詞を読むことが喜びだった。
 彼と同じことをしているのだと思えれば何でもできた。
 いつしか演劇そのものよりも、錯覚の「努力」を重ねる自分に酔い続けるのがやめられなくなっていた。
 意地だけで大学卒業までは通い続け、就職するという大義名分で養成所をやめ、そしてまた意地だけのためにこの地に留まっている。
 しばらくは演劇に熱を持っていたふりをしていたが、いつしかぱったりと全てやめてしまった。
 今では、そもそも丸山栄の何に憧れて上京したかすら朧げだ。
「掃除用具はここ。早番の日は開店の三十分前に来て店の前の掃き掃除とテーブルを……」
「はいっ」
 一言も聴き漏らさまいと必死にメモを取る英二は少し緊張しているようだった。バイト先がなかなか決まらなかったというのは本当らしい、と徹は納得する。
 徹より八つ年下の二十七歳だという。その柔和な顔立ちはやはり件の俳優によく似ている。
 くだらない興味はその俳優に似た声で遮られた。
「石山さん?」
「君は、演劇はしないの」
「演劇ですか」
 英二の瞳が揺れる。その中にあるのは未練であるように徹には見えた。
 やがて困ったように彼は笑う。
「したくても、ちょっと」
「そう。悪かったね、立ち入ったことを聞いて」
 世間の興味はとっくに削がれていると言え、まだ彼の兄の扱いは「犯罪者」である。
 兄や演劇への憧憬があっても感情があっても押し隠さなければ、家族の情を捨て、世間並に兄を責め立てる役回りでなければならない。
 演劇の世界に飛び込みでもすれば、強く兄を咎める役を求められるか、乗り越える役を強いられるかのどちらかになるのだろう。
 興味本意で趣味の悪い質問をしてしまったことに少し後ろめたさを感じながら、徹は説明を続けた。
 英二の手は少し震えているようだった。
 
 物覚えもよく、動きもきびきびとして、接客態度も上々であった英二はすぐ喫茶店に馴染んだ。
 彼が件の俳優に似ているのはさしたる問題でもなかった。
 若者は事件そのものをとうに忘れている。
 たまに気づく年配の客も「他人の空似」と言えばそれ以上詮索しなかった。
「凄く楽しいです、この職場」
 いつだか英二はしみじみと溢した。
 慣れてくれば合間に常連客と雑談も楽しめる。彼目当てに通う客の中には半ば本気でアプローチを仕掛ける女性もいたが、持ち前の明るさで軽くかわしているようだった。
 念のため、英二の名札は「角山」で作ってあった。
 ……こんな少しの工夫だけで十二分にやれるのに、外見だけを嫌って彼を入れなかった職場はずいぶんな損だと徹は心の底で笑う。
 きっと彼なら、どの職場でもどの役回りでもこなせるだろう。
 
 ――「奥さん?」、英二がすっかり職場に慣れてきた頃、世間話のつもりで徹は問いかけた。
 休憩室に徹が入ってきたこと自体が予想外だったのか、英二はしばらく目を泳がせたあと「そんな感じです」と言って写真を胸ポケットに隠した。
「若いのに、現像した写真なんか持ってるんだね。今の子、使い捨てカメラの使い方知らないでしょ」
「あはは。意外と知ってますよ」
「ホント?」
「ええ。……あの、俺、石山さんもっと怖い人だと思ってました」
「何、急に」
「面接の時ちょっと怖くて。バイト受けに来たけど、休憩時間とかどうしようって、若干」
 しどろもどろになりながら、必死に話題を逸らす英二に徹も付き合う。
 奥さんや彼女がいるのにまだバイトなんて――、という世間一般の詰り方をする趣味は徹にはなかった。
 ただ、詰るつもりでもない、懐かしさからの言葉が口から溢れた。
「似てたからね」
「ああ……」
 言われ慣れた言葉らしい諦めの表情の英二に、徹は思わずぽろっとつけ加える。
「……憧れてたからね」
 言うつもりもなかったのに告げたのは、青春時代の残滓のせいかもしれなかった。
 あるいは英二の諦めの表情に、フォローを入れたかったのかもしれなかった。
「兄に、ですか」
 驚いた表情は彼の演技によく似ている。
 青春時代に辿り着けず、辿り着けないのを分かっていてただ見続けるしか憧れ続けるしかできなかったもの。
 無駄な「努力」を続けてでも、追いつけないことを理解したくなかったもの。
 浮かされた熱の残滓。
(懐かしい)
 彼の演技はたくさんたくさん見た。
 もしここが演劇の中で、もし自分が彼に憧れを告げたなら、彼なら言葉を失ったような真似をして表現するだろう。
 そんなチャンスがあるなら、見てみたい。
 徹が自分の言葉を止められなかったのは、憧れていた人の血縁に会えて大人げなく理性を失っていたからかもしれない。
「栄さんに憧れて、上京したからね」
「……」
 ああやはりだ、よく似ている。
 英二の言葉の失い方に、どうしようもない既視感を覚えながら、またまるで彼と共演できているかのような錯覚を覚えながら独白を続ける。
「よくある思春期の憧れを拗らせてしまっただけだよ。それでも養成所通いは楽しかった。才能がなくてやめてしまったけど」
「……」
 みるみる淀んでいく英二の表情に罪悪感を覚える一方で、徹は台詞を紡ぐ口の止め方が分からなくなっていた。
 一種のトランス状態に陥っている自分が俯瞰できた。
 それでも憧れた彼の表情に演技に呼吸によく似た存在に、台詞を投げ掛けることを、どうしても徹は止められなかった。
 似ているから仕方ないのだと、道理の通らないことを思った。
「やめてからしばらくも、応援してたよ」
 とうに憧憬など失ったと思っていたが、まだかすかに彼への、そして演技への思いは残っていたらしいと徹は口の端を歪ませた。
 途端、心の中に英二への真っ黒な罪悪感が沸き上がる。
 全身のあちこちからどっと汗が吹き出した。
 自分の吐いた台詞の言葉の、幻影ではなく現実に与える鋭さに身震いし、言い訳にもならない軽薄な謝罪を述べる。
「ごめん、今俺が言ったこと、全部忘れて」
「どう」
 徹の言葉を遮るように英二が発した途端、びり、と空気が振動した。
 確かにその空気の中に、あの俳優の息吹を感じた。
「……どう、詫びればいいのか。申し訳ないなんて言葉じゃ」
「角山くんが詫びることじゃないよ」
「いえ」
 顔を上げたその表情に、空気に、飲まれた。
「代わって、お詫びします」
 その一言でしかなかったが、徹は言葉を返せなかった。
 同時に、追いつけもしない違いを見せつけられた自分自身の小ささが恥ずかしくもなった。
 これが演技か。
 英二の言葉は心の中からのものに違いないのに、徹はその思いを拭いえなかった。
 思えば、この時点で気づいていたのかも知れなかった。

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