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憧憬は麻薬にも似た

 たとえそんな出来事があったとしても、何事もなかったかのようにふるまう技量は、徹も英二も持ち合わせていた。
 いや、あるいは英二だけが持っていたのかもしれない。
 徹が新メニューの試食を提案したのにお詫びの気持ちがなかったと言えば嘘になるだろう。
「うめえ」
「最初は何食か限定として出そうと思ってる」
 フードメニューが貧弱なのは英二と徹を除いてパートスタッフが二名しかおらず、考案に時間が割けないということもあった。
 以前までサンドイッチとパンケーキ、パスタやアイスくらいしか出せなかったが、タルトやレアチーズケーキくらいであればさほど手間もかからない、ということで今日は意見を聞くべく英二が試食している。
「あ、もう食っちゃった。すげー美味いと思います。石山さんお菓子もできるんですか」
「作るのは俺だけじゃないよ。角山君にも手伝ってもらうことになる」
「……善処します」
「それは断る時の台詞だろう」
 手先が器用に生まれついた徹は料理に関する資格を暇に任せて取得していた。脱サラして喫茶店を開いたのも、趣味が高じてしまった部分が大きい。憧れに火が付けば先に行動してしまう性質は昔からだった。
 英二は真剣すぎる表情で、タルト生地の作り方を読み込んでいる。表情から、一つも取りこぼすまいというような鬼気迫る感情が読み取れて少し笑えた。
 丸山栄も料理はほとんどしなかったせいか、徹は英二も料理が苦手らしいことをあまり意外に感じなかった。
 ――似た者兄弟なんだな。
 純粋な感想だったが、告げるにはあまりにも無神経な気がして飲み下す。先日休憩室で頭を下げさせてしまった負い目もあった。
 代わりに、真反対の言葉を投げかける。
「意外だな。角山君は何でもそつなくこなせるのに」
 角山君、のところに妙に力を込めた台詞は不格好で、芝居がかって響いた。
 才能がない。大学時代にさんざ飛ばされた檄を徹は思い返す。
 英二は一瞬面食らったような顔をした後、きわめて自然に笑った。
「そんなことないですよ。できないことばかりです」
 レシピに目を戻しつつ、やがて英二はしっかりと頷いた。
「……頑張ります」
 徹の思考を全て見通しているような、冴えた目であった。

 ――代わって、お詫びします。
 これが演技か。
 徹の頭からあの情景が離れることはなかったが、徹はもう一度その熱に触れたくも触れられなかった。土足で入り込んでしまうようで、核心に触れることが何となく恐ろしかったのもある。
 その妙な遠慮を壊したのは英二であった。
「石山さんはもう演劇はしないんですか」
「才能がない」
「そんなこと」
「ついでに、やる気もない」
 何でもないことのように、徹は皿を食洗機に入れる。
 予想外であったのか、英二はぽかんと口を開けた後、堪えきれなかったようにくすくすと笑った。
「皿、落とすなよ」
「大丈夫です。……でも、それなら、仕方ないですね」
「ただただ、栄さんって格好いいなっていう憧れが、エネルギーの化け物になっただけだからな」
 憧れもあって、何より若さもあって、上京した。
 いや、あったのは若気の至りだけだ。さしたる覚悟もないままただ「格好いい」と憧れ続けていたのが若さと相俟って勢いづいた。
 戦隊物のヒーローを真似る子供のようなものだったと徹自身も今では分かっている。ただ、幼稚園児ではなく大学生だったのが始末が悪かっただけのこと。
 今ではその衝動も遠くはなっているが、罪を犯した人間であるのに、丸山栄に嫌悪感を抱けないまま、憧れを嘘にできないままでいる。
「格好よかったんだよ」
「ありがとうございます」
 噛み締めるようにして礼を述べる英二の横顔を徹は見据える。
「そういう君は」
「僕ですか」
「やりたいように見える。やりたくて、諦めたように」
 徹が初めから思っていたことだった。
 無遠慮な問いに、英二は目を閉じ、口の端だけで笑う。
「そんなことないですよ」
「嫌いか」
「いえ、演劇は大好きです」
 大好き、の言葉に徹は確信した。
 それはよかった、と言いながら部屋を出て、やがて戻ってくる。
「石山さん?」
「大学時代の仲間がまだ送ってくるんだ。嫌いじゃなければ奥さんとでも行ってくれないか。配れという意味なのか、毎回二枚来る。そういうのが嫌いならメモ帳にしてくれていい」
 アマチュア劇団の公演チケットである。
 演劇を見ればきっと感化されると期待してチケットを渡したわけではなかった。かといって徹にあるのは善意でもなければチケットをさばかなければならないという責任感でもない。
 言うなれば、こうすれば彼はどうするだろうという悪趣味な興味であった。
 ただ同時に、栄の息吹を持つ英二と演劇という組み合わせが、何か大きなものになりはしないかという幻影を夢見ないわけでもなかった。
 英二は困惑しきりの顔と、どうやら心底から沸き上がってきたらしい嬉しさの表情とを行ったり来たりしながら、やがて落とし所を見つけたように頭を下げた。
「……いただいておきます」
「まあ、無理して行かなくてもいいよ」
「いえ、知ってる演目なんで」
「そうなんだ」
「昔、演じたんです」
「そう」
 もしかするともう一度、憧れた彼の演劇が見られるかもしれない。徹は悪巧みを成功させたような喜びに浸っていた。
 その喜びは今までに味わったことのないような異様のものであった。
 
 すっかり埃をかぶり古くなったテープをビデオデッキに入れる。危なっかしい音がしてやがて映像が流れ始める。
 徹は珈琲を飲みながら憧れの彼の姿を目に映す。
 定休日であった。英二は恐らく演劇を見に行っているのだろう。
 長い間見ていなかったせいか流れる映像のストーリーは細かいところを忘れてもおり、新鮮に映った。
 今は近くに彼の弟がいるせいだろうか。憧れた当時よりも輝いているように見える。
 疾うに灰になってしまったと思っていた当時の憧憬がまざまざと心の中に蘇ってくるようでもあり、その喜びとも何ともつかない心持ちは長く浸っていたいと思わせるに充分であった。
 そうだ確かに当時、彼の姿をブラウン管の中で見る度似たような思いを味わっていた。
 だからこそ身にならない「努力」を続けられていたのだ。
 自分こそ、彼に成れるのだという思い込みでその幻想に身を浸していることが楽しかったのだ。
 ――憧憬は麻薬にも似ているのだろうか。
 口元の笑っている自分に気づき、徹はふと我に返る。
 気づけばビデオテープは終わっていたが、憧れの残骸はまだまだ棚に眠っていた。
「やはり、そうか」
 過去の幻想に浸りながら、やはり栄に成れるのは英二だけなのだろうと徹は確信していた。
 
 英二から演劇への意欲を聞いた時も徹はさして驚くことなく、むしろ予定調和のように思い、また同時に思惑通り、幻想の通りに事が運んでいることに笑みを隠せそうもなかった。
 再び彼の息吹を感じられるのだということへの感慨の他は英二の苦心や葛藤などについても何ら思いを馳せていない自分の冷たさに「年を取ったな」と考えないではなかった。
「石山さん?」
 訝しがる英二の様子は最もでもあった。
 徹は息をついて務めて冷静な表情を作り上げる。
 英二から、件のアマチュア劇団へ入りたいとの申し出があったのをようよう思い出しながら、彼からは目を逸らす。
「話は通しておいたよ」
「ありがとうございます。すみません、店に迷惑がかかるのに、頼んだりして」
「そんなのはいいよ。――でも、よく決心したね」
 外見のことを言われているのだとは分かっているのだろう、英二は困ったように笑い、やがて諦観のようなものを顔に浮かべた。
「思い出してしまって」
「そう」
 そう、あなたは思い出すべきだ。
 英二に目を遣りながらも、徹の頭の中では何度も見た栄の顔が映像が蘇ってくる。
「やっぱり僕は、あの世界が好きみたいです。しかし石山さんはすごいですね、見抜かれてるなんて思わなかった」
「最初から思ってた」
「さすがファンだけあります。……本当に、ありがとうございます」
 英二が頭を下げる。その後ろで入店を知らせるベルが鳴った。英二への返事の代わりに、徹は「いらっしゃいませ」と声を投げる。英二の顔を見て驚いた様子の客は、恐らく自分と同じ幻影を知っている人なのだろうと思いながら、注文を取りに向かった。
 ああ、何て素晴らしい日なのだろう。本当に英二が栄に成ってくれればいいのに。
 熱に浮かされたのは久しぶりだ。


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