春の山、鹿の骨
未だ春の来ない、寂しい山の内で若鹿は凛と立つてゐる。
その鹿の角に節が有り、角が紛ふことなく木の幹である証拠には、幹に花が咲いてゐた。
鮮やかに咲いた、桃の花である。
枯木の中、角の幹に咲く桃の花と鹿の様子は、絵巻物にも似てゐた。
鹿は凝つと遠くを見つめてゐる。
――桃の鹿、などと云ふ御伽話を聞いたからこんな夢を見たのだらう。
しやん、と遠くで鈴の音が響く。
咲く桃の花びらがひとひら、風に舞ひ流れたことで、栄助は漸く我に返つた。
栄助の生業は猟師であつた。代々の稼業で、十五を過ぎたころからの猟師である。
ある日、同じく山に住ふ男の家で噂を聞いた。
「何でも春には、桃の角をした大鹿が出るつて話さ」
「桃の角つてのは何だ」
「角の枝に桃の花が咲いてゐるのだ」
栄助は笑つた。
「大口開けて笑ふことはないだらう」
困つたやうに頭を掻かれ、漸く栄助は笑ひ顔を収める。
「悪い、悪い。あまりにも真面目くさつた顔で言ふものだからおかしくて。おとぎ話であらう」
「俺も初めはさう思つたさ。けれどこれが、見たつてのがちらほらゐる」
「はあ、それで」
茶化すように相槌を打つ栄助に少し気を悪くしながら、男は話を続ける。
「何でもこの噂が領主の耳に入つたやうだ。捕へた者には褒美がある。生死問はず、金子百両」
「百両」
目を真ん丸に開き、栄助は言葉をおうむ返しにする。
男は漸く満足したやうに口の端を上げた。だが栄助は未だ揶揄ふやうな調子であつた。
「大層面白い。まあ、鹿にしろ金子にしろ、俺には縁のなささうな話だ」
「……話し甲斐のねえ奴だ。云つて置くがな、こいつは厳命。絶対隠すなとの仰せなんだぜ――、何でえ、その興味のなささうな面は」
男はため息を一つくれ、情けないやうな顔をする。
「栄助。お前は大層猟の腕がいい。ここはひとつ、一発狙つてみやうつて気にはならないか」
「ならないねえ、相済まない」
がつくりと肩を落とす男を尻目に立ち上がり、栄助は帰り支度を始める。
「まあ、見つけたら仕留めてやるさ。お目にかかることがあればな」
「その時は勿論、俺にも分け前を忘れる勿よ」
「考えて置かう」
曖昧な返事の上、栄助は別れを告げて男の家を出た。
やうやう日の暮れ行く山の中、栄助は家路を急ぐ。
(桃の角ねえ)
春の近いころである。
厳しい寒さは遠のいて、朝夕以外は過ごしやすくなつた。
然し、だからと言つて頭まで和らいだかのやうなおとぎ話を聞かされても、簡単に信じられるわけがない。
ただ、桃の花が鹿に咲けばそれは随分と美しからう。枯木の中で花弁の舞ふやうな、幻想的な情景は嫌いでない。
栄助は現実主義者でありながら、夢想するゆとりも持つ男であつた。
と、冷たい風が彼に吹きつけた。
「……あ?」
花の香。未だ春の遠けきこの山で、幻想にも似た香りに鼻腔を擽られたやうな気がして、栄助はついぞ誘はれるように足を向けた。
栄助には、幻想に寄り道する遊び心があつた。
桃の鹿に出会つたのは、その先のことであつた。
――きつと夢を見てゐるのだらう。
零れ落ちんばかりの桃の花からは甘い香りが漂つてゐた。
――御伽話などを耳にしたから、美しい夢を見るのだ。
枯れ木ばかりの寒々とした景色の中、細く長い木の幹にも似た角を冠し、若鹿は凝つと遠くを見詰めてゐる。
栄助はふらふらと、そろそろと、吸ひ寄せられるやうに桃の咲いた若鹿に近づく。
凛とした、黒々としたまるい瞳であつた。
栄助に気づいた鹿は、その瞳を栄助に向けた。
互ひにしばらく顔を見合はせていたが、栄助はふと、鹿の震へてゐることに気づいた。
かつんと音がして、栄助の足に何か硬いものが触れた。
はつと気づいて足元を見遣ると、安つぽい金属製の罠が鹿の細い脚に絡んでゐた。
(詰らない景色だ)
幻想に水を差されたやうに感じた。栄助は不愉快ですらあつた。
屈み込むと、馴れた手つきで罠を外す。
「これはお前さんに似合はない景色だ」
口をついてそんな言葉が出た。鹿はまるい瞳を動かして大人しく栄助の手つきを見てゐる。
その大人しさに、もはや諦めきつたやうな雰囲気さへ感じ取つて栄助は言葉を続ける。
「捕へる気はないさ」
返事のないのにべらべらと一人呟くのは、神聖なものに触れるときと同じ畏れをごまかしてゐるに相違なかつた。
やがて罠は解け、流血した細い脚が現れる。
栄助は立ち上がり、今一度桃の鹿を見下ろした。
鹿がずつと大人しいので栄助は見通しの良い森を指し示した。
「……そら。もう行きな」
逃すのに少し躊躇つたのは、鹿が美しいと思つたからだつた。しかし、留め置き捕へるのも何やら罪深い気がした。それに、何よりも「斯うせねばならない」と云ふやうな直感が義務感が、栄助の心を支配してゐた。
この鹿は、このやうなちつぽけな罠に捕はるべきでない。さう思つてゐた。
冷たい風が吹き鹿の角を揺らして、一片の花弁が舞つた。
「……」
桃の鹿は何か云ひたげな顔を伏せ、後ろ足を引きずり引きずりゆつくりと歩き始める。
去り際に何度も栄助を振り返つたのが、礼を言つているやうであつた。その仕草がどうも女めいても見え、栄助は角の鹿にあるまじきことをふと思ひ至つた。
あれは、牝ではなからうか。いや、角の生える鹿は雄と決まつてゐる。しかし、どうも表情も仕草も――。
確かめる術が疾うに去つて終つてから考へても仕方のないことである、と無理に諦めて栄助は息を吐く。
足元に散らかる花弁、生々しい血と、金属製の罠。
「ああ、金子百両――、まあ良い。欲しくもない」
鹿を到頭見送つて終つてから、栄助はここが夢の中でないことを思ひ出した。
鈴の音が遠くから聞こえたやうな気がした。