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 七日ほどの間に三寒四温は繰り返され、春まで今少しであったが、まるで冬が最後の力を振り絞ったやうに、雪の降る晩があつた。囲炉裏に炭をくべながら、栄助は大きなくしやみをする。
 キンと、芯まで冷えるような心地であつた。
「ああ、寒い」
 花咲く春が待ち遠しく、一夜の夢のやうにして忘れてゐた風景をつい思ひ出す。桃の鹿。本物の桃の咲くのは今少し先であらう。そして桃が咲いても、あの光景は誰にも云ふ積りがなかつた。褒美は元より要らぬのであるし、何より幻想的な光景を覚えて置くのはどうも神の領域へ踏み込むやうな気がして、忘れてゐた方が心安かつた。
 神々の戯れを見てしまつたときと同じやうに、心の奥底に、それでも大事にして仕舞つてて置くべきことなのだと思つた。
 ただあの光景は随分と美しかつたと感慨に浸つてゐたせいか、窓の外に舞う雪が桃の花びらのやうにも見え、栄助は思わず瞬きをした。
(莫迦なこと)
 一蹴し、そろそろ寝ようかと布団を敷き始める。
「もし」
 雪の風に吹かれる音に交じつて声が聞こえ、戸の叩く音も聞こえた。
 夜半である。
(何だ)
 鈴の音も聞こえたやうな気がした。しかし気のせいかとも思つて彼が到頭寝やうとすると、もう一度現実の音がした。
「もし」
 何事であらうか。ともかく外の風は強くなつてきた。本当に人の居るのであれば、このままにしては置かれない。栄助は布団を跳ね除けると戸口まで走つた。土間が素足に冷たい。
「どちら様で――」
 云ひ乍ら戸を開けて、栄助は次の言葉を失つた。
 絵巻物に出てくるような、美しい娘がゐた。
「かめと申します」
 舞ふ雪に溶けさうな白い肌、通った鼻筋、黒々とそして凛とした目元。濡れ羽色の髪に挿しているのは桃色の簪。
 口に差した紅は艶めいてゐるが、どことなくあどけない。
 栄助は事情を話すでもなく先ず名乗りをあげたことに不信も抱かず、ただぼんやりと見惚れていたが、冷たい外の風にはつとして、一つ咳払ひをした。
「へえ、お亀さん。一体、何の御用でございまして」
「この山道で、迷つて仕舞ひました。今から山を下るのも難しうございます。隅で結構でございますので、どうか一晩、一晩お泊めくださいまし」
(迷はれたか)
 外は吹雪に近くなっている。
 緊張してゐるらしい亀の表情も姿かたちも、物盗りに見えないのは確かであつたが、それでも手狭なぼろ小屋には泊められるやうな場所はない。かと云つて、かじかんだ真つ赤な手の平をしてゐる彼女を放り出せるわけもなく、栄助はしばし沈思する。
「おつと」
 返事の先にくしやみが出、栄助は思わず苦笑ひをした。かめの緊張した表情も微かに緩み、栄助は腹を括つた。
「……寒いだらう。中に入つて火に当たるといい」
「有難うございます」
 泊めることに決めて仕舞つてから少しだけ後悔をしたが、今更後戻りもできなかつた。
「丁度奥に布団を敷ひた処なのだ。嫌でなければ使つてくれ。俺はここで寝る、何かあれば叩き起こすと良い」
「いえ、私はお邪魔する身で。第一、貴方様がお風邪を召して仕舞ふではありませんか」
 亀の断りは案外で、気丈で律義な女だと栄助は思つた。そしてそれは決して嫌な感じはしなかつた。
 栄助は顔の前で手をばたばたして苦笑する。
「こんなお嬢さんを土間に寝かせてどうするのだ。男の見栄だと思つて理解してくれ」
「いえ、そんな。貴方様がお使ひください」
 折れさうもないのが栄助の気に入つた。
「こんなしがない猟師に『貴方様』もねえだらう。栄助つてんだ」
「栄助様」
「ははは、栄助様。大した出世だ。さあ、もう寝るぞ。残念ながらここに『様』を付けられるやうな偉い人は居ねえんだ。もし俺のことを云つているのなら、その偉い『栄助様』の云ふことを聞きねえ」
 言ひながら遂に栄助は土間に茣蓙を何枚も重ね始める。かまどを焚けば多少は暖かいだらう。すつかり準備を整へると、空鼾をを始めた。
「……。有難うございます」
 戸惑ひながらも微笑んだかめの表情を夢うつつに見て、栄助は笑つた。

 栄助が目を覚ますと、かまどの火は消えてゐた。昨日より少し暖かいやうだ。枕元には薪拾ひの時に使つてゐる竹の背負ひ籠があり、栄助は思はず目を瞠る。何も籠があるだけなら驚くべくもないのだが、籠の中には蜜柑からフキノトウから茸から、食材がありつたけ放り込んであつたのだ。
「はて」
 果して斯んな蓄へが家にあつただらうか。さては昨日出会つたのは狐ではないか――、不審には思つたものの空腹には勝てず、終ぞ鮮やかな蜜柑に手を伸ばして一房口に放り込んだ。丁度食べ頃のやうで、甘酸つぱさが口の中に広がつた。化かされた訳でもないらしい。木の葉の味もしてゐない。
「栄助様。お早うございます」
「あ、ああ――」
 表の戸が開き、土間に鈴のやうな声が掛られる。凡そぼろ小屋には不似合ひの、美しい顔がそこにあつた。彼女はそのまま冷たい土間に正座をして深々と頭を下げると、狐につままれたのであれば決してされることのないであらう礼をした。
「昨日は本当に有難うございました。栄助様が居らつしやらなければ、どうしてゐたことか」
「困つた時はお互ひ様さ――、その、それよりこれはどうしたのだ」
 話題を逸らしたのは、何となく気恥づかしかつたのもある。亀は屈託なく笑つた。
「お風邪のときは水分を取るのが良いのでせう」
「風邪だつて? 俺がかい」
「違ひますか? 昨日は私を庇つて冷たい土間で寝られたからでございませう。お顔が赤うございますし――」
「ぶえつくし」
「ほら――」
「成程」
 さう云へば体が熱いやうだ。頭も重い。まあ、これは昨日見栄を張つた代償であらうから大したことはない。過ぎるほどの食糧は貰つてゐる。却つて礼を云つて送り届けねばなるまい。
 栄助がさう云ふと、亀は首を振つた。
「私のせいで栄助様はお風邪を召されて仕舞ひました。恩を仇で返したも同じでございます。この上はお世話をさせてくださいまし」
 気丈な顔つきである。栄助はとんでもなく驚いて、目を見開いた。
「何を云ふのだ。こんな風邪、一晩で治る。それよりもお亀さん、あんたが帰らなければ、家の人が心配するだらう」
「いえ、……私には、心配をするやうな人など、誰も」
 亀の気丈な顔つきもこの時ばかりは歪んで見えた。云ひかけた言葉を飲み込んで、栄助は頭を掻く。
「済まないことを聞いた」
「いいえ。実を申しますと昨日も、行く宛てなくさ迷つていたのでございます」
「さうか――」
 雪の夜半に、山の中を歩くとは思えない格好で歩いてゐた。何か事情はあるのだろうが、聞くのは栄助には躊躇はれた。亀は続ける。
「もしお邪魔でございましたら去る積りでございます。しかし風邪のお体では差しさはりもございませう。一晩の宿をお借りした礼として、せめて身の回りのお世話だけでも」
「ううむ」
 栄助は頭を抱へた。行く宛てのない若い身空を外へ放り出すのは忍びない。だからと云つて若い男女のこと、いつどうなるやも分らず、このやうに溢れんばかりの美しさを持つ娘を自分のやうな者に当てがつて仕舞つていいものだらうか。
 そもそも、この黒々とした丸い瞳の娘は、危さを分つてゐるのだらうか。
 栄助はしばらく考へ、やがて諦めた。
「俺としても、あんたのやうな美人に世話されて悪い気はしないさ。ゐたい丈ゐるといい」
 きつと世間知らずの割に気丈らしいこの娘は、此処の当てが外れたら他所へと行くのだらう。さうすればどんな危険があるや分らない。未だ、自分の監督をしてゐる方が幾分かましである。
「有難うございます」
 心底嬉しいらしい亀は何度も頭を下げてゐた。暫く気づかなかつたが、目立つてゐた桃の簪は外して、着物はたすき掛けをしてゐる。傍には箒が立てかけてあつた。朝早く起きて、掃除でもしてゐたのだらう。
(しかし)
 籠に入った数々の食材を顧みて、栄助は首を傾げた。
 これだけの食材を、大店の娘風である彼女は、いつたいどのやうにして採つて来たのだらう。
 さう思ひつつ、栄助は手にした蜜柑をすつかり平らげて仕舞つた。

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