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 ――ごめんください。
 凛とした声が店の入り口で響き、古書店の老主人は思わず居住まいを正した。
「いらっしゃいませ。ああ、どうも、大橋先生」
 一声で誰の来訪か分かり切っていたものの、まるで今気づいたように言ったのは、あるいは零れそうな喜色を隠すためのものかもしれなかった。
 陽に透ける白髪を結い上げて、桜色に身を包んだ老歌人。流石に若人のような肌艶ではないが、それでも目は表情はいきいきとして、往年の美しさが匂い立つ。
(変わらないな)
 いそいそと迎えに出ながら、着古したシャツに古ぼけたベストの自分を顧みて、彼は眩しささえ覚えた。
 幼子のようにきょろきょろと辺りを窺う佐和子に笑みを零しつつ、老店主は彼女の孫の不在を告げる。
「広樹君なら、今日は見えてませんね」
「ああ、ええ。宅でお友達と遊んでますわ」
「それは何よりだ……、こら、せっかく綺麗なお召しなのに。毛がつくだろう」
 黒猫は佐和子が来ると嬉しいらしく、構ってほしそうに足元を纏わりついている。
「遊びたいのよねえ」
「気まぐれなやつで」
 場の空気が綻んだ。
 しかし広樹でないとすれば彼女は何を探していたのだろう。彼が問いかける前に、悪戯っぽく佐和子は微笑んだ。
「ね、芳次郎さんでしょう」
 子供のごとき笑顔。隠すつもりではなかったが、何とはなしに伏せていた正体の看破に、老店主はしばらく二の句が継げなかった。
 ああ、周りに人がいなくてよかった。きっと今の自分はとんでもない顔をしているだろう。
 黒猫はごろりと横になり、老店主は参ったというように手で顔を覆う。
「……お分かりでしたか」
「もちろんよ。うちの料理屋で働いていたじゃない。いえ、本当はずっと分かっていたのよ。急に思い出したわけじゃないの。でも……、本当に、年を取ると狡くなっていけないわね。ご挨拶できなくて、ごめんなさい」
 今までの不義理を詫びるように佐和子は深々と頭を下げる。
「そんな、お嬢さんが謝ることでは、僕の方こそ」
「お嬢さん。お嬢さんですって。まあ、もう七十過ぎのお婆さんよ、私」
 相当におかしかったのか、からからと笑う表情はいつか見たのと変わりなくて、芳次郎はついぞ昔のことに思いを馳せていた。

あいのうた 横恋慕の話

 
 半世紀以上は前のこと。今は統合されてなくなった「浅川町」という町に小料理屋「くら花」はあった。
 二階には主人の倉田氏とその一人娘の住まい、一階には住み込み従業員のための部屋と小料理屋。
 静かな時間の提供と、京野菜を中心とした膳が評判であった。
「お嬢さん、危ないですよ。それに厨房に入っちゃいけないっていつも……」
 しかしその日は珍しく、薄緑の小紋をたすき掛けにした十五六の少女が一人、男達の厨房に紛れ込んでいた。
「いやいや良さん、いいじゃねえか。花嫁修行だ。お嬢さん、どうぞやってごらんなさい」
 柳々とした黒髪を一つに束ねて背に流し、黒くつぶらな瞳に憤りを乗せてみせるのは、早くに女房を亡くしたくら花主人が男手一つで育てたお転婆の一人娘。
「何よ徳治、バカにして。このくらい、私だってできるわ。切ればいいのでしょう」
 倉田佐和子は剣道の試合でもするかのように青菜へ立ち向かい、徳治とその取り巻きは面白そうにやんやと囃し立てる。
 やがてその刃は歓声と共に振り下ろされんとして高く掲げられ――。
「……包丁は」
 ぬうっという擬音が自然なほど静かに、しかしその高身長による存在感を示しながら芳次郎は佐和子の手から包丁を取り上げる。
「そのように両の手で握りしめるものではありません」
 そのまま身を屈めて柔らかに、青菜の根を切り取った。続いて手頃な大きさに丁寧に切り分けると、鍋の中へ優しく落とす。
 あっけに取られていたらしい周囲は、佐和子の驚声によって我に返った。
「すごい! きれいな手つきね!」
「……どうも」
 ――食材が勿体なくて見ていられなかったので。
 元来の物静かな性格と、少しでも大人に見られたいという十九歳の意地から言葉少なだった芳次郎はそれだけ言うと、特段反論しなかった佐和子をそのままに、持ち場へ戻る。
 興を削がれたのか、それとも新しいおもちゃを見つけたからか、徳治達は矛先を芳次郎に変えて冷やかし始めた。
「芳、お嬢さんに惚れるなよう」
「無駄だ、無駄だ。芳坊は惚れた腫れたを大事なお母ちゃんの腹の中に置いてきたんだ」
「ははは、違いない」
「……」
 芳次郎は冷やかしを聞き流しながら表情は変えず、ただ遠くから怒髪天を突かんばかりに歩いてくるらしい姿を認めてふうと一息吐く。
「佐和子! こんなところで何してんだ! それにお前らも無駄口叩いてないで手ぇ動かせ!」
「へい!」
 小料理屋店主の雷が落ち、束の間の嵐は去ってゆく。
 佐和子の顔も周囲の冷やかしも頭から追いやると、芳次郎は休日に買うべき雑誌のことだけを考えていた。

 

 芳次郎はくら花への住み込みではなく、病身の母と二人暮らしであった。料理人連中はそのほとんどが住み込みであったため目立つことではあったが、どうせ馴染めもしない職場であることは自身で分かっていたから、いつか別の仕事を、できれば文壇に関わる仕事をするつもりでおり、住もうと思うこともなかった。
「明日になさったらどうです」
「きゃ、いたの」
 だから本来、消したはずの厨房の明かりがついていることに外で気がついても、知らないふりをして通り過ぎようとさえ思っていた。だのにわざわざ戻ってきたのは、今日の大嵐が頭のどこかにあったせいだったのかもしれない。
「……」
 大嵐なる張本人はくすと笑う。
「無口なお人」
「ええ。……明日になさったらどうですか、怪我をされてはたまらない」
「心配してくれているの?」
「親父さんがよく言っているでしょう。その道具は俺たちにとって神聖なものです。子供の遊びで触られたくないんですよ」
「……そうね」
 昼とは違う神妙な表情に、納得したらしいと芳次郎は合点して、そのまま踵を返そうとした。
「それでも私は神様に刃向かってやるんだわ」
「……はあ」
 呆気にとられる芳次郎をよそに、佐和子は笑顔を見せる。口元は笑っていたが、瞳は何かに対する戦意を燃やしていた。いったい何と戦おうというのだろう。意図が飲み込めないまま芳次郎が黙っていると、彼女ははっと気がついたように頭を下げて謝罪した。
「あなた達の大事なものに、勝手に触ってしまったのならごめんなさい。でも私は、お父様から私を遠ざけようとするこの子たちを、却って手懐けてやるつもりなの」
「……」
「例えばお料理がうんと上手になったら、もしかしたらあなた達みたいにここで働くことを認めてもらえるかもしれないでしょう。そうしたらまだお父様と一緒に居られるでしょう」
 よく見れば、佐和子の目は腫れ上がっていた。どうやら昼間のことで随分叱られて泣いたものと芳次郎は悟ったが、こうして深夜に隠れて反抗をする辺り、どうも父の諫言を聞き入れるつもりはないらしい。
(強情な人だ)
 どうしてこんなことにこだわって、まるで何かに抗おうとするのか。「神様」とは何のことだろうか。幼い子供の反抗期だと一笑に付そうと思ったが、どうしてか芳次郎にはその言葉が引っ掛かった。
「女なのにと思ってらっしゃる。でも私は水のように流されたくないのよ」
「……」
「私は新しい女なの」
 芳次郎はその言葉を否定も肯定もしないまま、ただ彼女の「神様に刃向かう」という言葉の響きに打たれていた。
「あら、それ、なあに」
 芳次郎の手にした風呂敷から少しはみ出ている、文芸誌に佐和子は目を止める。
 その視線から隠すようにして、芳次郎は今度こそ踵を返した。
「何でもありませんよ。……包丁を使うのなら、予備のがありますからそれを使って洗っておいてください。あと、くれぐれも力いっぱい握りしめないように」
「うん。お話聞いてくれてありがとう」
「別に、話を聞くつもりなど」
「でも、見逃してくれるのでしょう」
 きっと悪戯っ子のように笑っているのだろうとは思ったが、芳次郎はその表情を見ないまま、言葉も返さぬままに家路についた。

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