それから何度か、点きっ放しの厨房の明かりを見かけることはあったが、包丁も丁寧に洗ってあったので、芳次郎は何も言わなかった。
昼間の嵐があの日以来ないことから飽きっぽいお嬢様だと厨房で言われていても、気にも留めなかった。ただ住み込み従業員の中で深夜の物音が怪異扱いになっているのを、心の底で笑うくらいである。
(『神様に刃向かう』怪異か――)
御伽草子のようである。
だが確かに、父の助言を容れずに毎夜青菜と戦う反抗心は怪異と呼ばれても仕方ないのかもしれないと、従順な芳次郎は思っていた。
行動の意図こそわからなかったが悪い印象は抱かず、却って度々思い返していた。
「芳坊、芳坊」
あの深夜のことも佐和子の表情も、繰り返すほどに芳次郎の頭に深く焼き付いていたが、それよりも彼には大事にしたいことがあった。
「母さん、おはようございます。今日は空がきれいですよ」
「芳坊、……いつまでも母さんに構うことはないんだよ。あの子の代わりをすることはないんだ。もう私だって長くはないんだから」
芳次郎の兄は随分早くに死んでいた。長たらしい病名を医者からは聞かされ、今の医学ではどうしようもないのだと知ってから、芳次郎は母を支えることに決めた。
ただ、兄の死んだのは自分のせいだと思い込んでいる母は、兄と同じ病に侵されながら、苦労を掛けさせまいと芳次郎を労わり続け、自分を捨てろと諭し続ける。
優しいはずの労わりが、芳次郎にはどうしてか重荷であった。
――捨てていいんだと言われて捨てられるものなら、疾うに捨てている。
入院費は賄えなかったが、こうして薬を買い医者を呼ぶ代金を稼ぐことは出来るのだから、捨てろと諭すのじゃなくて、せめて――。
「ああ、長治、もうすぐ母さんも逝くからね」
「……行って参ります」
母からの返事はない。女中に後を託けて、芳次郎は家を出た。
今日は週刊である文芸誌の発売日であった。
公園から臨む空は驚くほど晴れ渡っていた。購入したばかりの文芸誌を携えて、設置されている木の長椅子に腰かける。芳次郎はどくどく言う
心音を聞きながら、投稿の頁を開く。
「……」
投稿した短歌は残念ながら選外であった。ただ、その金賞に輝く歌を見れば選外となる結果も十二分に納得できた上、美しい歌や評論などに目を通していさえすれば、世間並みの憂さなどは忘れることができた。
やがて、いつか彼らの仲間入りをできないだろうか、と芳次郎は夢想する。それには資金がどれくらい必要なのだろうか、良い学校を出る必要があるだろうか。いや、もし仮にここでずっと金賞を取り続けて、誰かの目に留まったら――。
「あら、面白いものを読んでいらっしゃるわね」
「……」
興味津々な瞳に、夢想はぱちんと弾けさせられた。
「お一人で出歩きなさってるんですか」
「私は新しい女なの」
「そうですか」
興も夢も削がれたように、芳次郎は雑誌を閉じる。彼女が前触れなく隣に座るのを、抵抗の意思も込めてじっと見つめた。
「何の用です」
「用なんてないのよ、気晴らしに歩いていたら百面相が見えたものだから」
「……台所の練習はどうなさったのですか」
佐和子が嫌がるだろうと思いながら芳次郎の聞いたのは、早く帰ってほしいという意思表示だった。
毛嫌いするわけではなかったが、楽しみを邪魔されたことへの苛立ちも、寄せつけぬようにしているのに無遠慮に近づいてくることへの恐怖も、そして彼女の反抗を好もしいと思いながら一方では――、それが自由に振舞える環境にある故であることへの妬みもあった。
芳次郎にとって佐和子は「お嬢様」だった。
だからこそ「お嬢様」という印象をぐらつかせる、先からちらちらと蘇る夜更けの泣き笑いを思い返して天秤を傾かせたくも、深く関わりたくもなかった。
相手に深く同情し関わればどうなるか、身を以て知っていた。
彼女は芳次郎の陰鬱な気持ちを全て吹き飛ばすように、明るく笑う。
「暴露ばれてしまったわ、残念ね。お父様ったら、一人娘がお父様と一緒に居たいと心配する気持ちを全く分かってくれないの。つまらないことなんてしてないでさっさと嫁に行けだなんて。ほら見て、さっきぶたれた所、赤くなっているでしょう」
佐和子はそう言って左頬を見せる。赤くなっているのは頬だけではなく、その黒目がちな瞳もであった。随分と泣いたらしい。
そう言えばこの間の夜更けにも、泣いて、泣いて、笑っていた。
夜更けの厨房。神様に刃向かってやるの。
「……」
どうしてそこまでして反抗するのか、そうまでして何故父と一緒に居たいのか――、そう問おうとして芳次郎の脳裏を掠めたのは、自分の存在を視野に入れようとしない自身の母であった。
ただ、そのことは決して口にせず、現実からも自らの想いからも目を背けるようにしてそっぽを向く。
「父親なんてそんなもんでしょう」
「まあ、呆れた! 新進歌人の歌を読んでるお人の言葉とは思えないわ」
「……この雑誌、知ってるんですか」
「私も買ってきてもらったもの。この間、あなたが読んでいたものはいったい何かしら、と思って」
佐和子が笑うので、芳次郎はああ、まただ、と思った。
この人は、楽しそうに太陽みたいに、真っ赤な目をして笑う。太陽みたいなのに、深夜の厨房にいる。
その明るさが、笑顔が急に痛々しいものに見え、芳次郎の胸は苦しくなった。
いけない、いけない。同情してはならない。警告を鳴らす芳次郎などにお構いなく、彼女はてんで朗らかに、純粋に問いかける。
「ねえ、歌って面白いの?」
純粋な興味らしかった。
彼女が太陽であるのは、自分が流れるままの水のようなのと同じで、生まれついてなのだろうと芳次郎は悟った。
「自分には、面白いです。……あまり、言葉がうまくないものですから。三十一字だけで会話ができればいいとさえ、思います」
笑ってくれればいいと思ってそう言ったあたりで、芳次郎は既に彼女に降参していた。
「それってきっと大変よ」
「冗談のつもりでしたが……」
「ふふ」
「……歌集も家にあります。ご興味があるのであれば、お貸ししましょうか」
「ううん、いいの。ただ時々、面白いものがあったら教えてくださらない?」
「……ええ」
返事をしてしまったのは、同情などではなく、親に対しての似た思いを持つ者への共鳴が近かったのかもしれなかった。
だがそんなことは関係なく、芳次郎は疾うに、彼女に白旗を上げていた。
見てしまったものを全て水に流して関わりを忘れようとしたのに、太陽の抵抗にあってそうせざるを得なかったのだ。