「芳坊の噂を知ってるかい」
くら花の厨房で、徳治はにやにやと、悪賢そうに笑う。
「知ってるも何も、ここで働いてるじゃねえか」
また何か企んでいるのだろうと思いながら返事をしたのは、次のくら花主人と噂されている良三であった。別の職との兼ね合いで芳次郎のいない、まだ客の入る前の時分であった。
徳治は窘めるような言葉も聞かず、にやにやを続ける。
「このところお嬢さんとしょっちゅう会ってるって話だ。もしかしたらひと悶着あるんじゃねえのか、そろそろだろう」
「馬鹿。いつも芳坊には色気がないって冷やかしているのはお前じゃねえか」
持ち場に戻れ、と言外に含ませながら良三は下準備を続ける。その悪い噂は、徳治の佐和子に憧れているが故の妬みからくると知っていたから多少の同情はすれど、相手にもしなかった。
ただ、突き放すと噛みついてくるの性質の徳治が今回大人しく交渉してきたのは意外であった。
「はは。じゃあ良さんよう。芳坊には何も言わないでくれやしねえか」
「お前の下らねえ噂のことなんかわざわざ言うかよ」
適当にあしらいながらも、徳治の目に悪辣な光が浮かんでいることが、良三には少し気にかかっていた。
――青菜切る しろき手頸と まなざしと その奥にゐた 光優しき
「誰のことですか」
「さあ、誰かしら。少なくとも徳治じゃないわ」
「そうですか」
悪い噂の当人同士はいつの間にか、晴れの日の公園で文芸誌を広げることが慣習化していた。
時には芳次郎が歌集を持参し、狭い知識から歌についての講義を行い、さほどうまくない短歌を互いに詠み交わすほどである。
この集会は自分が始めたことであったか、佐和子が始めたことであったか忘れてしまっていたが、それにしても――随分懐かれてしまったものだと芳次郎は思っていた。
互いに、親への愛憎入り混じった想いを抱く者同士の共感もあったのだろう。
「芳次郎さん」
「何です」
「その、よそよそしい話し方がそろそろ嫌だわ。普通に話してもらえないかしら」
「……お世話になってるところのお嬢さんですから」
「あーあ、まじめな方ね。そうして逃げるのは狡いわよ」
「……」
共感もあったのだろうが、それ以上に芳次郎は彼女にぐらぐらと心を揺らされていた。
しかしあくまで、講師と学生にも似た立場を外れることはなかった。
日の暮れかかる頃には家路につき、彼女を送り届ける。紅に染まった道を歩きながら、佐和子はふと気づいたように言った。
「芳次郎さんって、夕暮れの歌が好きなのね」
「もっとも詩情のある時分ですから。好きですね」
何気なく返した芳次郎の言葉に佐和子は足を止め、そして振り返る。
「そう。……私も夕暮れ、詠んでみようかしら。好きなのでしょう」
その、少し挑戦的でもある笑顔の意図。
都合よく夢想してしまいそうな自分に待てをかけるために芳次郎はしばし押し黙った。佐和子はその機を逃さない。
「ね、芳次郎さん。もう一度言ってくださらない?」
好きなのでしょう、夕暮れが。親しみを込めて、それでいて急かすように甘く佐和子は呼ぶ。
こうも親しげに名を呼ばれたのはいつぶりだろう。
二人の影は長く伸び、間に一枚の枯れ葉がひらひら舞い踊る。
はっと気づいたように、芳次郎は雑誌の頁を繰り、佐和子に押し付けた。
「こ、ここに葉書を送って……、もし選ばれれば、次号で添削もしてもらえますよ。俺は思いついたときのために葉書を持ち歩いています」
「葉書……。まあ、それもいいわね」
佐和子は少し驚いたように、しかしそれでいて何かを思いついたかのようにして頷いた。
投稿の受付をしていることなど、佐和子はとうに知っているのだからあえて言う必要もなかったのだとは芳次郎も分かっていた。
だが、先の言葉の意図を夢想して、夢想した想いから身を躱すにはそれしかなかった。
(それに、女に言わせちゃ――)
長く伸びる影に落としていた視線を上げると、まるで返事を待つように、考える芳次郎の表情を見つめている佐和子と目が合って、思わず芳次郎は雑誌でその間を遮る。
「……じっと見んでもらえますか」
「ごめんなさいね。芳次郎さん、最近表情が変わったなと思って、つい」
「それは……、どうも」
――芳、お嬢さんに惚れるなよう。
後から思えば、この時告げればよかったのだろう。
しかしそれでも一度話題を逸らさせたのは、もしこの自分に都合のいい夢想が現実であるのならいずれ自ら告げるつもりであって、そしてその時間も十二分にあると考えていたからだった。
そして、太陽のごとき笑顔に惹かれながら、都合よく夢想することが何よりも安らぐ時間であったからだ。
芳次郎は当たり前に、なす術なく、恋をしていた。
「ただいま戻りました」
「長治かい」
「はい。芳次郎は仕事に行きました」
「そうかい――」
寝たきりの母は、この頃記憶が混濁することがままあった。そして芳次郎が長治の居ないことを告げると身体に障りそうなほど嘆き悲しむものだから、長治に「なる」ことが増えてきた。
前ほど心の痛まないのは、きっと楽しみを見つけてしまったからだろう。だが現実的に、医者代、薬代はくら花や切符切りだけではこの頃あまり賄えなくなってきた。せめてもう少し稼げる職を見つけて、楽をさせられるようにならなければ佐和子を迎えることなど夢のまた夢の――。
(何を考えてるんだ)
芳次郎は夢想を頭から追い払う。
だが、夕暮れに浮かんだ彼女の笑顔に、自分と同じものがあるのではないかという予感もあって、きっとそれは嘘ではないのだろうという確信に近い思いもあった。
それでいて、「お嬢さん」と過ごす時間は夢のように幻想的でもあった。
神様に刃向かってやるんだわ。
このところ芳次郎は時折、佐和子に似た笑顔を一人零すようになっていた。
今日も鉄面皮を揶揄し続ける徳治とその取り巻き、そして何となしに窘める良三に挟まれて、いつもの通り芳次郎が厨房で下準備をしていると、物の倒れるような激しい音が二階から聞こえた。
厨房には緊張が走る。きっとまた佐和子が何か言って、ひっぱたかれたのであろう。すすり泣きが聞こえてくる。
短気な主人の雷は以前から時々あったことではあるが、殆どはお転婆な佐和子への教育的指導で、手まで出ることはそうなかった。だが最近とみに暴力的な指導の多いような気がする。心中穏やかでない芳次郎をよそに、階段を下りてきた主人は大声で怒鳴りつけた。
「良!」
「へい!」
良三は厨房からの視線を浴びながら、主人のもとへ走り寄る。何かこまごまと話をした後、参った、とでもいうような表情で――、芳次郎のもとへと近づいてきた。
心苦しそうに、風呂敷に包まれた荷物をずいと芳次郎に突き出す。
「芳、おめえちょっと若旦那様の所へ遣いを頼まれてもらえるか」
「はあ」
「お嬢さんが行く予定だったんだが――、ちょっと、な。俺も仕上げがまだ途中なんだ、お前皮むき終わったろ」
「……」
ひと悶着あっただろうことは、想像に難くない。遣いに行くことにも文句はなかったが、聞きたいことがあった。
「家は分かるか」
「いえ。若旦那様とは、どなたで」
「そりゃあ……、お前……」
「旦那」であればくら花の主人である。「若旦那」であればその子の世代だ。
くら花の主人に、子は一人しかいない。
佐和子が女性である以上、「若旦那」たるのはその配偶者またはその予定の――。
(――)
――芳次郎さん。
なおも言い淀む良三に、芳次郎は心臓が絞られるような思いがした。
予想がついた。何もかもが分かった気がした。とん、と簡単にしかし残酷に、暗黒へと突き落とされたようだった。だからこそ、次の言葉を聞きたくはなかった。
「……大橋の呉服屋あるだろう。その、佐和子お嬢さんの」
「おおっと!」
徳治は嬉しそうに、少し芝居がかった様子でにやにや笑いながら、良三の肩に手を回し、厨房の隅へ連れていく。
「芳には知らせねえでいようって話だったじゃねえか」
「おめえな」
「いいだろう。自分の惚れた女の祝言にのこのこやってきて、あのしけた面がどんな百面相するか見てやりてえんだよ」
「あのなあ――」
「よう、芳。悪ぃなさっきの話は忘れてくれ。お前はただ大橋の呉服屋にこいつを届けてくれりゃあいい」
徳治が、元々のたくらみがばれてしまった腹いせに、芳次郎にわざと聞こえるような声で悪辣な言葉を、悪意があると知らしめるための言葉を吐いているのは分かった。だが芳次郎にとって、徳治の悪意はあろうとなかろうとどうでも構わないものであった。
「ええ。行ってまいります」
「け、澄ました顔してんじゃねえ、つまんねえな」
――好きなのでしょう、夕暮れが。
佐和子の想いが自分にないことこそ、裏切りにも思えるほどの衝撃であった。