――神の手に 千々に裂かれた 姿さへ 恋しからぬや 夕暮れの君
裏切りだ。裏切られたのだ。
いや、何も約束したわけではない。自分が勝手に取り違えたのだ。
しかし、年頃の男女が、たとえ講師と生徒というような間柄であったとしても、何度も何度も逢瀬を重ねたのは、そういうことではなかったのか。
芳次郎はいつか走り出していた。
まさか、意図を分かっていなかったということもあるまい。
いや、彼女は「新しい女」を自称していた――、だから敢えて、想いもしない男をからかって自らの満足を得ていたのかもしれない。
驚きの目で見る周りなど気にしないままに芳次郎は駆ける。悪鬼のような形相であった。
そもそも、いつから決まっていた婚姻なのだろう。
芳次郎は深夜の涙を思い返し、やがてその前の嵐を思い出す。徳治の声音が蘇った。
――「花嫁修行だ。お嬢さん、どうぞやってごらんなさい」。
もしかしたらあの時から既に決まっていたのだろうか。だとすれば、とんだ笑い者だ。父と一緒に居たいなどという感傷に共感して絆されたのがいけなかった。
ふと絶望的な考えに思い至り、芳次郎はぴたりと足を止める。
いやあれは、父の傍にいたかったのではなく、ただの嫁入り前の感傷だったのかもしれない。
そして自分はただ、図らずもその感傷を慰める手伝いをしただけのことで――。
「ははっ」
芳次郎は片手で顔を覆い隠すようにして自嘲する。みるみる表情は凍りつく。
――お嬢様のおセンチの慰み者に、体よく使われたわけか。
橋を越えれば呉服屋はすぐそこである。繁盛の大店で、世情に疎い芳次郎でも名前は聞いたことがあった。小ぢんまりした料理屋の一人娘が嫁ぐことになったのは、きっと佐和子の美貌と大橋の家柄や資産が釣り合って、くら花に必要な色々の計画が進められるからなのだろう。だから佐和子が嫁に相応しくない振る舞いをすれば、主人は相当に怒ったのだ。
あんな大店じゃ、料理を覚える必要なんざないだろうが。馬鹿にしてくれる。
大店。家柄、資産、婚姻。遠い世界で倦み疲れた気まぐれなお嬢様が、手慰みに下郎を突っついた。
下郎であるからこそ叱る価値もお咎めもないのだ。子供が汚い犬猫を触ったからと犬を叱る親がどこにあろう。佐和子が叱られたのはそういうことで、自分の方は遣いから戻ったらあっさりクビで終わるだろう。
端から、芳次郎の割って入れる話ではなかったのだ。
くら花の開店も近い。荷物を届けて、悪い夢から覚めなければならない。
(悪い夢から……)
そうしてまた、家で「長治」になる。「芳次郎」と親しげに呼んでくれる人は、もうどこにもいないのだ。
短歌にうつつを抜かす暇はない。稼がねばならない。愛の枯れかかった、もはや同情だけで養う母のためにも。あの家に、佐和子の来ることはないのだ。
ささやかなる恋は、抵抗は、もう終わったのだ。
橋の中ほどに差し掛かり、芳次郎は不意に川を覗き込んだ。人からは身投げのように見えたかもしれないが、そのつもりはなかった。
紅葉の流れるその川へ荷物を投げ入れようとしたのは、怒りとも悲しさとも、あるいはやりきれない衝動が不意に沸き上がったからとも分からなかった。ただ、少しでも関係が拗れればいいというような、女々しい思いがどこかにはあった。
まだ恋をしている自分。それを振り払いたく勢いのまま荷物を振りかぶった時に、小さな紙片がひらと木の葉のように舞った。
「ちっ」
馬鹿にしてくれる。馬鹿にしてくれる――。
――それでも私は神様に刃向かってやるんだわ!
一度皺くちゃにされたらしいその紙片を忌々し気に拾って、拾い上げて、中身を見て、芳次郎は頭から冷水を掛けられたような気分になった。
裏書きの女文字。見慣れた手癖。
先の二階の大騒ぎは恐らく、この皺くちゃな写真に端を発するものであるだろうことを芳次郎は容易に悟った。
急に冷静さを取り戻したように、芳次郎は息をついた。――何も、思い違いなどではなかった。
裏切りなどはなかったのである。
大いに安堵し、贅を尽くした弁当らしい、この荷物の入った風呂敷を地面に置いて、芳次郎はじっと目を閉じる。
色々のことが頭を去来していき――、やがて一つの不安が沸き上がってきた。
――これは夢想ではなく、現実なのである。
「お嬢さん」
ああ、やはり彼女は「お嬢様」であり、夢幻の存在なのだ。魅入られた自分が悪いのだ。
幼い佐和子は破談の意味を分かっているのだろうか。
橋の向こうにあり、ここからでも見える大店。一方、未だに借家住まいの貧乏暮らし。きっと本当に破談になれば、仮に芳次郎を選んだとしても、待っているのはただ生活苦だけではない。
揶揄。嘲笑。真っ赤に腫らした頬。瞳。
――長治、長治。
――芳次郎さん。
(ああ――)
芳次郎は当たり前に恋をしていた。恋する女性が大事であった。
抵抗を考えもした。彼女と同じに刃向かうべきであると思った。
再び大橋の呉服屋を見、流れ行く川を見つめた。
(大事なのはお嬢さんだ――)
これが端から自分の出る幕ではないただの横恋慕であったことは、たとえ彼女の気持ちが如何様であれ確かなのである。
(俺にはこれで充分だ)
芳次郎は皺くちゃを丁寧に広げると、そのまま懐に仕舞い込む。投稿に出すつもりで、何も書かないままにしていた葉書を代わりに取りだすと、丁寧に書きつけて荷物に忍ばせた。
――秋空の 夕陽纏ふた 花よめよ 幸ひであれ 末永き路
口下手な自分には、今の心持を彼女に上手く伝えられないだろう。これを、彼女に届ける最後の歌としよう。
ああ、夢想の中に居続けられない現実主義者の自分は、きっと自分は文壇にかかわる仕事はできないだろう――、いっそ彼女の方が向いているかもしれない。芳次郎はそう思って苦笑しながら、ようやっと道を歩き始めた。
「恋人がおりますので、縁談はお断り申し上げます。夕暮れの似合う素敵な御仁です。佐和子」
茜さす公園で並んで座る芳次郎と佐和子の仲睦まじい写真。
彼女がいつか歌壇に上るなら、彼女の歌を全て集めてしまいたいものだ。そう思って歩く芳次郎の心は、晴れやかですらあった。
老歌人は緑茶を啜って頬を緩める。
「不思議なお話よねえ、お断りを書いて、お父様の目を盗んで入れたはずなのに何故かとんとん拍子に日取りが決まって。私の言葉なんて届きやしない、あれよあれよと三々九度――」
「女性の言葉が届かないという時代でもありましたね」
「そうね。でも、刃向かいたかったの。自分の意志で生きたかった」
言外に、佐和子の目に、それがどういう意志だったのかが含まれているような気がして、芳次郎はその視線を甘んじて受けていた。
黒猫は佐和子の膝に上って眠っている。
芳次郎が先に沈黙を打ち破った。
「まあ、今だってお相手へは恥をかかせちゃいかんでしょう。それに僕は、あなたが断ってくれたという事実で充分だった」
「あらとうとう尻尾を出したわね。すり替えたのはやはりあなただったの」
「分かっていたでしょうに」
「本当にもう、無口なお人だわ」
からからと、全く恨んでいない表情での恨み節。芳次郎はつられて笑いながら、机の下に隠した歌集にちらと目を遣った。
佐和子は笑う。
「ずっと前に亡くなりましたけど――、とてもいい人だったの」
「それは良かった。僕も広樹君という、小さなお客さんを持てるようになりましたから」
「そう。……私もお客さんにしてくれるかしら」
「ええ、もちろん。品揃えには自信があるんです」
大橋先生の歌集もありますよ、あらお恥ずかしい、などやり取りをしながら二人は夕暮れまで話をした。
秋の日は赤々と、二人を照らしていた。
――わくらばの 木離(こが)れて消ゆる つかの間に とほきこひぢぞ 夢にこそ見む
その最後の歌と共に大橋佐和子の死が報じられたのは、再会のおよそ二か月後であった。
芳次郎には懐かしい、母と兄を殺したあの、長たらしい名前の病が紙面に書き立てられていた。