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 母が、むやみに気遣いを見せていた時期がある。
 父が、困った顔をしていた時期がある。
 自分の中では大したことではなかったのだが、どうやら自分の行動が両親を困らせていたらしい。
(……気持ち悪い)
 早朝五時。中学時代の夢は、あまり見たくはない。
(眠い……)
 今日は、ちゃんと朝ご飯を食べられそうだ。

「コマ、ただいま」
 すり寄ってきたコマの頭を撫で、結華はほっと息をつく。
 まるで心配するように顔を上げたコマに小さく笑った。
「弟子がね、住み込みになったよ。悪魔らしいよ? 割といい人」
 あたりは真っ赤に染まっている。まるでユリの瞳の色のようだと思いながら、結華はつぶやいた。
 コマはじっと結華の瞳を見つめたまま、動かない。
(……?)
 どうしたのだろうと体を浮かせた瞬間、コマがうなり声をあげ始めた。
「コマ? ……ごめん、私何か」
「僕が気に入らないようですね、その狐」
 急に背後から声をかけられて結華は目を丸くした。
 ここ数日で聞き慣れてしまった声に、振り返りながら返事をする。
「狐じゃなくて柴犬だよ?」
 ユリはその言葉には答えず、物珍しそうにきょろきょろとあたりを見渡していた。
「悪魔とかそういうのって、こういう場所は入れないイメージがあったけど」
「いえ、僕やキャシーが入れないのは結華さんの心です。プリーズオープンユアマインド」
「結構解放してると思うけど……。というか、何故ここに」
「迎えに来たのよ」
「ありがとう」
 キャシーに言葉を返す。
 ユリはちらりとコマを見ると、結華を見据えて問いかけた。
「先生、一つご教授ください」
「何?」
 仰々しく聞かれ、結華は思わず体を硬くする。
「今まで、つらいこととか、悩むようなことってあまりなかったんですか?」
「いや、あるにはあったけど」
 質問内容に面食らいながらも何とか答える。
(……そうか)
 ユリはいままで「そういう」人たちにばかり出会ってきたと言っていた。
 だから恐らく、確認をしたかったのだろうと結華は納得する。
「悩みがない人とかいたら逆に見てみたいね」
 ユリは結華の表情を眺めると、ふいと横を向いた。
「そういうものですか。まあ、いいですけど」
 どこかほっとしたような表情で笑う。
 何故かその表情に違和感を覚え、結華はふと思い当たる。
(ユリって、あまり悪魔として――)
 ふと結華の中に浮かんだ考えは、ユリの言葉で中断された。
「ところでそこの狐さん。睨みつけてないで、言いたいことがあるならおっしゃったらどうです」
「だから柴犬だって……」
 人の話を聞いていないらしいユリに結華は訂正を入れた。そもそも、喋る動物などキャシー以外に見たこともない。
 コマはただの柴犬だ。喋るわけがないし、結華は今までに声を聞いたこともなかった。
 案の定、コマはじっとユリを見つめているだけである。
「正体を知るなら遠慮はいらぬか」
「え?」
 結華はきょとんとした表情でコマを見つめる。
 喋っているところなど聞いたこともなかったが、確かにコマから声が発せられた。
「……喋るの? コマ? え?」
 コマは動揺しきった結華の姿をじっと見つめ、何かを考慮しているようだった。
「この姿で喋るのは確かに奇っ怪か……。これならばどうだ」
「ちょっと待って何これ、え、人だったの? ……誰?」
 コマのいた場所に、いきなり人が現れた。少なくとも結華にはそう見えた。
 長身痩躯の男。結華よりもいくつか年長であろうその人物は、切れ長の黒い双眸で結華を見下ろしている。
 白い小袖に緋袴を履き、見た目はまるで神社の巫女のようだ。風が彼の黒く長い髪を揺らしていた。
「何を言う、コマといつも呼んでくれているだろう。……しかし、そんなにも驚かせたか……」
 コマであるらしいその人物は思案顔で、白く細い指を口元に伸ばす。
 あっけにとられている結華に、小さく頭を下げた。
「驚かせたならばすまなかった」
「……何でしょう。『悪魔』については全く驚かなかったのに狐が人になると驚くんですね」
「結華ちゃんの驚きセンサーはどこについているのかしら」
「いや、うん。まあ、こういうこともあるか……」
 いつまでも驚いていたって仕方がない。
 結華は頭を振って気持を切り替えた。
「先ほど申したいことがあるなら申してみよと言ったな。ならば言わせてもらおう。即刻結華の元から立ち去れ」
「ずいぶんと一方的ですね」
「何を言う、結華に取り入って害をなそうとしているのだろう? 私を見つけ、名づけた存在の危機をわざわざ見過ごせるか」
 コマは険しい表情でユリを睨め付ける。困ったとでも言うような表情でユリは大きくため息をついた。
 取りなすようにして結華が説明する。
「コマ、ユリは弟子になるって言ってたよ」
「偽りだ。結華の弟子になるというのなら、悪魔としての職務を放棄してから言え」
「職務を?」
 結華の魂を奪うというのがユリの任務であると聞いていた。
 コマが言っているのは恐らくそのことなのだろうが、それならば既に結華は断っている。
「それは」
「できぬというなら、私が結華の魂をもらい受けよう」
 結華の言葉を遮るようにして、コマは宣言した。
「は?」
「弟子になるというなら、当然だ。師の命を狙う弟子がいてたまるものか。……地獄へ行き、正当に任を解かれた後に弟子入りでもすればいい」
「……」
 ユリは何も答えない。
 状況を把握した途端、周りの空気が急に張りつめたものになったように結華は感じた。
「答えろ」
「……先生はずいぶんと面倒なものを抱えているんですねえ」
 ぴんと張った静寂の中で、ユリは再び、大きくため息をついた。
 その口調はずいぶんと冷静で、結華は少し違和感を覚える。
「何が?」
「ここに来た瞬間、可能性は考慮しましたが……まさか本当に狐つきだなんて」
「コマは犬だってば」
 訂正する結華に苦笑を返し、ユリはにこやかにコマを見据えた。
 しかしその瞳にはあまり強い力が宿っていないように、結華には見えた。
「職務を放棄ですか、いいでしょう。では今すぐにでも地獄へ戻って」
「偽りを重ねるか。戻ったふりなど通じぬぞ」
「……おや」
 笑みを含んだユリの言葉を、コマは力強く切り裂いた。
 口元だけで笑うユリに、コマは見下すような表情を浮かべる。
「私の正体など既に看破しているだろう?」
「困りましたね……。これでは結華さんに選んでもらわなければならない」
「何を?」
「魂を、僕に渡すかあるいはその狐に渡すかです」

 

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