「はあ……」
サチが山に入った途端、諦めたらしく追手は去って行った。
(どうしよう)
自分が行き場を失ってしまったらしいと自覚した途端、急に重たいものがのしかかってきたようにサチは感じた。
行く当てがない。恐らくここでは、家族と連絡を取るすべもないだろう。
(どうしたら……)
途方に暮れる。一人になってしまったことが恐ろしい。
足を動かすこともできないまま、サチは立ち尽くす。
(でもどうにかしなきゃ)
すぐに切り替えることはできそうになかったが、何とか案を巡らせる。
一つしか考えは浮かんでこなかった。
(……すごく情けないけど……)
また厄介になってしまうのは得策ではないし、あまりにも情けない。
だがそれでも、サチの頭にはセキの顔しか浮かんでいなかった。
(とりあえず、事情だけ話して……。その後は……)
サチの心臓はまだ音を立てている。
見知らぬ人に追い立てられて逃げ出すといった経験など、今までしたこともなかった。
何より、妙な場所に迷い込んでしまったらしいという恐怖と、帰れるのかという不安が心を支配し始めていた。
(セキさんに会いたい)
恐ろしいことが立て続けに起きたせいか、少しでも見知った人の顔が見たい。
涙が出そうになりながら、サチはひたすらに山道を歩く。
(……何か落ちてる)
山道の途中で、サチは朽ちた看板らしきものが地面に落ちていることに気づいた。
文字はずいぶん昔のものらしく、また行書体で書いてあるせいか全く読むことができない。
(何の看板だろう)
道先案内板であればどれほどありがたいだろうと思った。
ようやくサチは見覚えのある家の前に到着した。
涙が出そうになるのを抑えながら、震える声でサチは家の中に声をかける。
「すみません」
「……えっ、サチ?」
バタバタとあわただしい音の後、がらりと勢いよく戸が開かれた。
セキは驚いた顔をしている。恐らく自分の表情のせいもあるのだろうとサチはぼんやり思った。
「……」
「……どうしたの?」
「私にも、何がなんなのか……」
サチが深刻な顔をしているせいか、セキも難しい顔をしていた。
ざわざわと木々の鳴る音だけが聞こえてくる。
ただ事ではないと悟ったらしいセキは、低いトーンでつぶやいた。
「とりあえず、話を聞かせて」
「はい」
セキに招かれるまま、サチは再び家の敷居をまたいだ。
サチが事情を説明すると、セキは信じられないといった表情をした。
「ここはサチのいた場所でも、時代でもなくて、気づいたら一人で放り出されてたってことなんだね」
「……はい」
要約された内容を聞いて、サチは自分の置かれた状況を改めて理解した。
「うーん……。迷い込んじゃった、って感じなんだね」
何故迷い込んだのか、どうやって迷い込んだのか。理由は見当もつかない。
どうしてこんなことになったのだろうと、もはや幾度目かわからない疑問がよぎっては消えていく。
(行く場所が、居場所がない……)
土地だけが違っているのであればまだいくばくかはましだっただろう。
時代までも違っているとなれば、そこから帰れる方法など、サチには皆目見当もつかない。
たった一人ぼっちになってしまったような気がして、サチは顔を上げることができなかった。
「サチ、怖くないよ。大丈夫」
肩をぽんぽんと叩かれて、サチははっと気づいたように息を吐き出す。
セキに心配をかけてしまったらしい。
「すみません。ありがとうございます」
自分の気持ちを叱咤して、サチは顔を上げた。
どうするべきか、考えなければならない。
(何か手がかりでもあれば、いいな)
サチはふとあることが気になって、セキに尋ねた。
「そう言えばセキさんは、私の格好を見ても何とも思わなかったんですか」
「ん? いや、時代なんて気づいたらすぐに変わっちゃうからねえ。今はそういう時代なんだなとしか思わなかった……」
セキは当たり前のように答える。
どう返すべきかサチが迷っていると、セキが小さく笑った。
「まあ、とりあえず、何とかする方法が見つかるまでは、ここにいなよ」
「え」
意外な言葉に、サチはきょとんと目を丸くする。
セキがたしなめるように言った。
「え、って、じゃあどうするつもりなの。また追いかけられちゃうよ」
「でも、迷惑ばっかりかけるわけには……」
方法が見つかる当ても手がかりないのに、いつまでも居座るのは心苦しい。
昨日今日出会ったばかりの相手に、迷惑ばかりかけるのが申し訳ないような気がして、サチは落ち着かなかった。
その様子が意外だったのか、セキは深く息をついてつぶやいた。
「いい子だなー、サチは。えらいね、そこまで考えるんだ」
(普通、考えると思うけど……)
セキの言葉の意味が分からなくて、サチは首をかしげる。
心の底から感心したようなセキの表情も、サチには不思議だった。
(でも、ここでお世話になる以外に方法はない気もする……)
何もかもわからないことばかりだから、せめて見知った人のところにいたいという思いはサチにもあった。
「ここなら好きなだけいていいよ。俺、毎日一人で暇だから」
「本当にすみません、ありがとうございます。あの、せめて、家のことだけでもお手伝いさせてもらえませんか」
せめてもの思いで、サチはセキを見上げる。
その申し出も意外だったらしく、セキは一瞬目を見開いた後、嬉しそうにほほ笑んだ。
「えー? 俺は一緒にご飯食べてくれるだけでうれしいんだけどなあ」
「それじゃあ私の気が済みません」
「わかった。じゃあ、手伝ってもらう。……ありがとう」
何故お礼を言ってもらえるのかもわからないまま、サチは自分がどことなく安心していることに気づいていた。
元いた場所に戻れる手がかりがあるとすれば頭の中だろう。
だが考えても考えても、この場所に、時代に来るまでどうしていたのかを思い出せなかった。
昨日泊まっていた板敷の部屋の中で、サチはぼんやりと天井を見上げる。
(どうしよう)
いい方法が全く見つからない。
思考を巡らせつづけ、やがて部屋が夕闇に染まり始めたころ、セキに声をかけられた。
「ねえ、サチ。今日も宴を開くから、料理の準備を手伝ってもらってもいい?」
「手伝います」
考えてばかりでは頭がどうにかなってしまう。
サチは台所へ向かうと、セキを手伝うことにした。
「今日は何人いらっしゃるんですか?」
「今日も昨日と同じだよ。来る人もね」
(仲良いんだなあ)
日々、同じメンバーで宴を開くなんて、きっと心から信頼している人たちなのだろう。
サチはセキの真剣な横顔を盗み見ながら、そんなことを思った。
深更。ふと、サチは誰かに揺り起こされたような気がした。
(……あれ、図書館……?)
宴の後片付けをして、寝床に入ったと思ったのは、夢だったのだろうか。
見覚えのある図書館の風景が、目の前に広がっていた。
(さっきまで、セキさんと一緒にいたような気がしたけど……。あの家にいたことが、夢だったのかな)
あるいは、戻りたいとずっと考えていたから、こんな夢を見てしまったのかもしれない。
だが、夢にしては座っているソファの感覚がずいぶんと確かなものであるような気もした。
(誰もいないなあ)
閉館後の図書館は、こんな感じなのだろうか。
何の音もせず、しんとしていて、ただ本のにおいだけが漂ってきていた。
「あなたはまだ戻れません」
はっきり告げる声が聞こえてきた。
「どうすれば戻れるんですか」
反射的に、サチは問いかける。
「赤鬼を助ければ、戻ることができます」
(赤鬼? セキさんのこと……?)
助けるとは、手伝うということなのだろうか。
それ以外にも、たくさん疑問はあった。
「あの、あなたはどなたですか。それに、私は何で山の中を歩いていたんでしょうか」
「あなたは本に呼ばれたのだとだけ、告げておきます」
「……はい?」
サチが眉間にしわを寄せた途端、再び目の前が暗くなった。
目を開けると、今度は、セキの家の天井が目に入る。
(何だろう、今の夢)
やけにリアルな感触のある夢だった。
セキを助ければ戻れると言っていたが、事実なのだろうか。
(夢は夢だよね)
サチは身を起こすと、大きく伸びをする。つかの間の夢だと思っていたが、どうやらすでに朝になっているらしい。
夢の中の出来事を信じてしまうなど馬鹿げていると思ったが、不思議と、サチの心の中にあった漠然とした不安は消え去っているようだった。
(セキさんを手伝わないといけないっていうのは、事実だし)
戻れる、戻れないは別としても、間借りしている身なのだから恩を返さなければいけない。
夢のことは心に留める程度にしようと決め、サチは身支度を始めた。
まずは家の中にはたきをかけて、次に箒で掃き掃除をする。
そして雑巾で床を磨く。高校の教室よりも広い家だが、案外何とかなるものだとサチはピカピカの床を見つめながら満足げにうなずいた。
「すごいねえ」
「セキさん」
サチがセキの家に厄介になり始めてから、すでに数週間が経っていた。
毎日の掃除、洗濯はサチの仕事になり、料理はセキと二人で作るというのが当たり前になりつつある。
「サチは、えらいね」
「お世話になってますから」
「そうかなあ」
セキは笑顔ともつかないあいまいな表情をした。
(またこの表情だ)
セキは度々、感心したような口調でサチを褒める。
その度にサチは世話になっているからと返すのだが、セキは納得したようなしていないようなあいまいな表情を決まって浮かべる。
切なげにも見えるその表情が、サチはどうしても不思議だった。
「俺、魚取りに行ってくるね」
「いってらっしゃい」
セキは嬉しそうに出かけていく。
その後姿を笑って見つめながら、サチは何故か心の中がざわついているように感じた。
(これでいいのかな……?)
外は快晴。
あまりにもきれいな空が、反対にサチを不安にさせた。
(毎日家事をして、褒められて、宴をして、話をして、安心して眠って)
あまりにも当たり前に、穏やかな日々が過ぎて行く。
いつか溶けてしまうのではないかとさえ思える安らかさはあるが、どうしてかそれがうすら寒いように思えた。
(戻れるのかな)
セキにも、この家にも不満はない。
ただ、いつかこの穏やかな生活が当たり前になって、流されきってしまうのではないかという不安が常にあった。
(助ければ、戻れるって言ってた)
確証はないが、あの夢は本当のことを言っていたように思う。
だからこそこうして、家のことを手伝っている。
もうしばらくは様子を見ようと、サチはざわつく心を無理やりに抑えた。
その日もやはり、同じメンバーでの宴が開かれた。
皆が楽しそうに笑い、もてなされている姿を見るのがサチも楽しみになってきていた。
ただどうしても遅くなると睡魔に勝てなくなることも多い。
「サチ、眠い?」
「すみません……」
「いいよいいよ、若いんだもん。早く寝なさい」
まるで子供のようにあしらわれながら、サチは立ち上がる。
その様子を、セキは笑いながら見つめていた。
「それじゃあセキさん、お休みなさい」
「お休み」
襖が閉まる。
途端に、部屋の空気が冷えたようだった。
「どうしてだろう。何だか最近、いつもより楽しいんだ」
答えの分かりきっている問いをセキは投げかけた。
どこからも返事はないが気にした風もなく、セキは自分で答える。
「サチがいるからかな。話をして、笑ってくれる人が、ちゃんといるから……」
一つ、明かりが消える。
「セイが見たら、何て言うかな。喜ぶかな。怒るかな」
その問いかけには少し、物悲しい調子が含まれていた。
もう一つ明かりが消えて、部屋はより暗くなる。
「いてくれるだけでいいのに、家事までしてくれるし。いつまで、一緒にいてくれるかなあ」
やがてすべての明かりが消え、部屋は闇に染まった。