ある日、セキはじっとサチを見つめて、深く息をついた。
「どうしたんですか」
「サチは……。何でそこまでしてくれるの」
「置いてもらってるんだから、当たり前じゃないですか」
いつものやりとりが始まったと思い、サチはまた笑顔で返す。
「……そっかあ」
セキは嬉しそうな表情で笑う。
ようやく、得心したというようにも見えた。
(あ……)
いつもの表情ではないことに、サチはどこか安堵していた。
「いつも、いつもありがとうね。本当に」
「こちらこそ、お世話になりっぱなしで」
サチは頭を下げる。ここが居心地のいい場所であることに、変わりはなかった。
セキはにこにこと笑い、そのまま外へと出かけていく。
川魚でも取りに行くのだろう。そうサチはあたりを付けて、掃除の続きに取り掛かった。
(……何か嬉しいな)
胸にあった一抹の不安さえ、消し飛んでしまいそうだった。
廊下を掃きながら、サチはある部屋の前で何気なく足を止める。
(この部屋……)
今日はなぜだかひどく、部屋が気になった。
いつも宴を開いている広間。
夜にしか入らないからなのか、昼間は妙に静まって見える。
いつも賑やかで、明かりが灯っていて、おいしい料理のにおいがしているからだろうか。
(そういえば、毎日毎日宴を開いてるよね)
宴の開かれない日はない。
毎日のように客が来る。
(セキさん、人柄がいいからなあ)
誰にでも分け隔てなく優しいから、慕う人、仲のいい人が毎日来てくれるのかもしれない。
だから、毎日のようににぎやかな宴が開かれているのだろう。
そこまで考えて、サチはもやもやとした小さな疑問を抱いた。
(毎日、にぎやかな……?)
「サチ」
サチの背後からセキの声がかかる。
「セキさん」
「この部屋はしなくていい」
セキの表情には一切の余裕がなかった。
「……え?」
「しなくていいから」
冷たい言葉にサチは身じろぎする。
「わかりました。すみません、余計なことをして」
何とか言葉を絞り出して、サチはその場を離れた。
「……ごめんね」
小さな謝罪の声は、サチの耳に届かなかった。
いつもの通りに宴は開かれた。
いつもと同じように、同じ人たちが、同じ笑顔を並べている。
(何だろう)
サチの心はひどく波立っていた。
何も変わらず、賑やかで楽しいはずなのに何かが引っかかっている。
(……)
セキも、いつもの表情に戻っていた。
他の人と、楽しそうに話をしている。
(……そういえば)
サチは、料理に手をつけながら、あることに気がついた。
(私、セキさん以外の人と話をしたこと……)
「サチ」
「はい」
セキの声で、サチの思考が中断される。
「疲れてるの? 今日は早めに休んだら?」
セキはまた、余裕のない表情をしていた。
何故だか空恐ろしくて、サチは無言でうなずく。
「じゃあ、お言葉に甘えて戻りますね」
「うん。後片付けはやっとくからね」
「ありがとうございます」
お互いに、感情のこもっていない声だった。
風呂から上がったサチは、天井を見つめながら考えていた。
(セキさんとしか、話したことない)
それ以外にも、いくつも疑問がある。
(あの人たち、玄関から入ってきてない。でも毎日、同じ時間に同じ人が来てる)
今まで気づかなかったが、異常なことだ。
セキが慕われているからだと思っていたが、たとえそうだとしても、毎日毎日同じ時間に来られるわけがない。
(……)
何かがおかしい。
サチはごろりと寝返りをうちながら、もやもやとする疑問と戦っていた。
「いるか」
サチの思考を引き裂くような野太い声が玄関先から響いてきた。
立ち上がろうとして、身がすくむ。
(……この声って)
ふもとの町に下りた時にサチが聞いた声と酷似していた。
そう思った瞬間、追いかけられた恐怖を思い出して一気に血の気が引く。
どうやらセキが気付いたらしく、玄関へ向かう足音が聞こえた。
サチは部屋の物置の中に入り込んで襖を閉め、息をひそめる。
「出たな、鬼め!」
叫び声が聞こえてきた。
「呼んだのはそっちでしょ」
セキは呆れかえったような冷たい声で応対する。
「……話のできる頭はあるようだな。娘を一人探している」
自分のことだとサチは悟った。
探しに来たのだと思うと、ぞっと背筋が寒くなる。
「妙な服装の娘だ。見かけたら」
「ああ、気づかずに殺めてしまったかもしれないなあ」
(……え?)
まるで何でもないことのようにセキは告げた。
男の返事はない。
セキは今までサチが聞いたこともないような口調で、言葉を続ける。
「君も、鬼の棲家によくものこのことやって来られたね。ふもとの人間はこの山に住む鬼が人を食らうと知っているから、来ないものだと思っていたけれど」
(人を?)
サチは玄関先に立っているのが本当にセキなのか、確認したい気持ちに駆られた。
耳に飛び込んでくる情報量が多すぎて、処理しきれそうにない。
(でも、さすがに脅してるだけだよね)
人を食らうというのは、男を追い返す脅しの言葉だろう。
セキなら、サチのためにそれくらい言ってしまいそうだった。
(セキさんは人柄がいいから)
以前思ったことを繰り返す一方で、サチは先日、ふもとの町で追いかけられた時のことを思い出す。
(山に入った途端、誰も追ってこなくなった)
セキが、人を食らうと知っていたからだろうか。
少なくとも、ふもとの町でそういった扱いになっていることは、今のセキの言動から明らかだった。
(……鬼だから、不思議なことではない……のかな)
だが、セキに限ってそんなことはないはずだという思いも確かにある。
再び、もやもやと、疑問が渦を巻き始めた。
「交渉を持ち掛けに来ただけだ」
男はたじろぎながらも、相変わらずぶしつけな口調でセキに詰め寄っているようだった。
「交渉?」
「娘を差し出せば、こちらは『青鬼』を返す」
「……青鬼?」
ぴしりと、空気が引き締まるような声だった。
「匿っているのだろう。三日後また来る。それまでに考えておけ」
「……勝手なことを」
セキの言葉が届いているのかはわからなかったが、玄関の戸が閉まる音が聞こえた。
サチは大きく息を吐く。
「何で『セイ』が……?」
ひとり呟くセキの声が聞こえてきた。
サチはそろそろと襖を開ける。セキは自室へと戻って行ったようだった。
大きく息を吸った。冴え冴えとした空気に、頭が覚醒してゆく。
(このままじゃ、ダメだ)
サチは暗闇の中で頭を振る。
今までも、気づこうと思えば気づけたことなのかもしれない。
セキは、何かおかしい。セキだけではなく、この家が、宴が、何かがおかしい。
(気づくのなんて、今更なのかもしれないけど)
いきなり現れた見知らぬ娘を匿ってくれるくらい、セキが優しいのは知っている。
しかし、本質に関しては理解しようとしていなかった。
(正体を知りたい)
ただただ状況を享受するだけではなく、動いてみようとサチは決意した。
翌朝、セキもサチもお互いに無言だった。
重々しい空気の中で朝食をとりながら、サチはちらりとセキの様子をうかがう。
聞いてみたいことがたくさんあった。
セキとぴったり目が合う。
「……」
「セキさん」
セキが目をそらす。
その表情は、焦っているようでもあった。
「サチ」
「はい」
「今日から、宴は出なくていいよ。……晩は、適当に食べといて」
「聞きたいことがあるんです」
そう告げたサチに答えることもなく、セキは無言のままどこかへと出かけて行った。
サチが立ち上がるのは少し遅かったらしく、行方は分からなかった。
(『セイ』さんって誰だろう。あの宴は、何なんだろう)
昨日と同じことをもう一度考える。
立ち入ったことかもしれないが、それでも知っておきたかった。
(何でだろう)
ふと、何故こうも気になるのかをサチは考えた。
他に行き場がないからこそ、不安を潰しておきたいのだろうか。
これ以上流れに任せたくないからこそ、情報がほしいのだろうか。
それも正解であるような気がしたが、根本的な理由はほかにもあるような気がした。
(無理に聞き出したくはないけど……。でも、仲よくさせてもらってると、私は思ってるし)
無意識のうちに友情に似た親愛が芽生えている。
だが、それだけが理由ではない。
(居場所をくれた)
行くあてもなく山中をさまよっていた時も、サチが家に帰れないことに気づいた時も、快く迎え入れてくれた。
嫌な顔一つせず、笑顔でサチを家に置いてくれている。
セキ自身は無意識で行っていることなのかもしれない。だが、見知らぬ場所、時代、環境の中で迎えてくれる人がいるというのは、サチにとって一番ありがたいことだった。
(あの日、宴に誘われなければどうなっていたのかな)
誰かにとらわれて、見世物のようになっていたのかもしれないし、どんな目に遭っていたかわからない。
少なくとも、穏やかに日々を過ごすことはなかっただろうし、落ち着いて考えることもできなかっただろう。
ここに置いてもらっているということが、サチはとてもありがたかった。
(だから、少しでも何か……。役に立てたらいいんだけどなあ)
サチは食器を洗い場へ運ぶ。
(『セイ』さんはとても大事な人なんだろうな。交渉に持ち出されるくらい)
慣れた動作で食器を洗いながら、昨日のやり取りを思い出す。
(私と交換って言ってたよね、確か)
サチが行かなければ、セキの大切な人は帰ってこないということだ。
サチは大きく息をつく。
(私が行かなきゃ、セキさんは困るのかな)
頭の隅にそんな疑問がよぎる。
知りたいことが多すぎて、頭がパンクしてしまいそうだった。
(鬼って、何なんだろう)
外面を初めて見た時は確かに恐ろしいと思った。
だが、その内面は優しい人であるようにしか思えない。
(正解は何なんだろう)
全ての正解が知りたくて、サチはひたすらセキを待っていた。
セキはサチの知らぬ間に帰ってきていたようだった。
宴もどうやら始まっているらしく、広間から明かりが漏れてきている。
今日もおそらく、同じ人が同じ時間帯にやってきて、同じ笑顔でもてなされているのだろう。
(今入ったら、お邪魔かな)
せっかくの宴を邪魔するのも悪いし、何よりいざとなると少しだけ恐ろしくなって、サチは気おくれしていた。
一日中考え事ばかりしていたせいかずいぶんと部屋が息苦しく、サチはそっと庭に出る。
夜風が気持ちいい。
外に比べて、家の中はずいぶんと淀んでいたような気がした。
(明かり……)
ふもとの町にも、明かりが灯っている。
懐かしい明かりであるような気がしてサチは小さく息をつく。
(どうしようかな。セイさんのこと、宴のこと、セキさんのこと……)
嫌でも頭に上ってくる考え事に、サチは少し疲れてきてしまっていた。
(セキさんを助けたら戻れるっていうのも、本当なのかな。助け方もわからないけど)
少なくとも、家事を手伝っていても先が見えないということだけは分かった。
今わかるのは、セイの助け方だけである。
何故だか、セキの切なげな表情が頭に浮かんできた。
(家事とかそういう物理的なものじゃなくて、もっと別の助け方があるのかな。助けたいな。お世話になりっぱなしで、そのままなんて嫌だな)
サチは素直にそう思った。
元いた場所に戻れるからだけではない。セキのことをもう少し知って、できるならば助けたい。
(仲良いと思ってるのは、私だけなのかな)
セキはサチによくしてくれているが、それは行き場のないサチを憐れんでいるだけかもしれない。
だがもしそれだけだったとしても、何か恩を返すことができればと思った。
「……うーん」
サチは空を見上げ、再びふもとの町に目を落とす。
もし、このまま、ふもとに下りてみたらどうなるだろうか。
そのついでに『セイ』の解放を願い出てみたら、セキを助けたことになるのではないだろうか。
(セイさん、大事な人みたいだからなあ)
いつか見た夢を思い出す。
セキを助ければ、戻れると告げられた。
(知りたいことは、たくさんあるけど……。もしかしたら、聞かれたくないのかもしれないし)
セキの朝の態度を思い出す。
聞きたいことがあると告げたサチの言葉を退けて、何処かへ去ってしまった。
そして今も、サチを避けているように見える。
(そうだよね、きっと。聞かれたくなかったんだろうな。悪いことしちゃったかな)
気づけば、サチの足は進んでいた。
一歩、また一歩、サチは少しずつふもとへ下る道へ近づいていく。
何故歩いているのか、足が動いてから考え始め、サチはふと思い当たった。
(これって、逃げてるだけなのかな)
また、空を見上げる。
居場所はセキの家しかないけれど、これ以上ここにとどまっている自分が想像できなかった。
もしかしたら、セキの本性を知るのが怖いのから、逃げ出そうとしているだけなのかもしれない。
(セイさんのこと、宴のこと、セキさんのこと、鬼のこと……。いろいろ知りたいな)
聞いてから、ふもとへ下りるのも悪くないのかもしれない。
そうすれば、知りたいことを知って、セキを助けられるだろう。
思いとどまって足を止めた時、聞きなれた声が聞こえてきた。
「サチ!」
サチは驚いて振り返る。
切迫した形相のセキがそこに立っていた。
「どこ行くの」
「……」
ずいぶんと自分が歩を進めていたことに気づいて、サチは驚いた。
セキは切なげな表情で訴える。
「君も、俺を一人にするの?」
「一人って」
泣きそうにも見えるセキの表情が痛ましくて、サチはなだめるように問いかけた。
「いつも宴に来ている人は」
「気づいてたんじゃないの? あれがまやかしだってこと」
「どういうことですか」
「……幻影だよ」
意外な返答に、サチの動きが停止する。
幻影という言葉の意味は分かるが、セキが何を意図しているのか、サチには理解しがたかった。
言い含めるように、セキが問いかける。
「サチは、俺のことを何だと思ってる? 何に見える?」
「えっと……」
「正直に言っていいよ」
今まで、サチが何となく避けていた質問だった。
「赤鬼……ですか」
人と違う存在であれば、幻影を作れても不思議はないのかもしれない。
サチの中で、腑に落ちる答えが見つかった。
「ああ、やっぱりわかってたんだ……。それでも、居てくれたんだよね?」
「優しいって、知ってますから。それに、セキさんが居場所をくれたから……」
セキは手で自分の顔を覆って、ため息をつく。
その手から伸びるひどく鋭い爪が、何故だかとても印象的だった。
セキはため息をつくようにつぶやく。
「戻ってきて、サチ。俺、久々に人と過ごせて、楽しかったんだ……」
「セキさん」
膝からくずおれる赤鬼に、サチは駆け寄った。