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​少女の猫

 猫をたくさん飼っているようなものよと彼女は言った。
「よく言うぜ。猫はあんた自身だろう」
「そうかしら」
 名も知らぬ少女は白い腕を男に巻き付けながらくすくす笑う。
 男はその腕を邪険に振り払うと少女を座らせ、傷の手当てを続ける。この古い安アパートの一室は男の借りているものだが、いつからか気づけばこの少女が良く入り込んでくるのであった。
 少女は浮気者である。そして浮気者であるからには蠱惑的で、奔放だった。どこかあどけないような顔をしていたが所作だけは一丁前の女で、本当に少女かどうかなど、男には分からなかった。
 ただ彼女の無邪気さは少女というにふさわしいと男は思っていた。そしてそう思っていたのが男だけでなかったが故に、彼女は過日怪我をした。
 机の上には書きかけの原稿用紙だけが広がっている。外は折からの真夏日で、蝉がじゃかじゃか鳴いていた。古くさい畳敷きの部屋の中、扇風機だけが回っている。
「たまにいるのよ、猫のくせに一丁前にやきもち焼くのが」
 少女は男の手当てを受けながら続ける。顔だけは殴られなかったらしい。しかしその美しく細い腕は痛々し気に鬱血し、剥きだした素足には転んだような擦り傷や切り傷が浮かんでいる。
 もっとひどい場所もあるのよと見せたがるのを病院へ行けとあしらったはずが、いいから見ろ見ろと言ってどうも聞き入れない。
 「手当てしてやるから。その後は病院行け、馬鹿」。誘いには乗らず、男が真剣に伝えた言葉に少女は一瞬きょとんとして、次に大笑いしたが結局嬉しそうに受け入れて今に至る。
 消毒液と包帯はあるが、医術の心得などないので自然、男も見様見真似の不格好な手当てになる。
 少女は腕に包帯を巻かれながら続ける。
「体くらいはいいけれど。心まで入り込んできちゃ鬱陶しいわ」
「……それ見ろ、やっぱり猫はお前だ」
 気まぐれめ。一丁前の顔をしてあちこちに愛を囁くからそんなことになる。男はそう言いたいのを堪えて、少女の顔から目を逸らしながら不器用に手当てをする。
 暑い昼日中。扇風機が回る。蝉の声も暑さに負けてか少し止む。風鈴がチリチリ鳴る。
 少女は珍しく、まじめな表情を浮かべて問いかけた。
「ねえ私、書き物の参考になる?」
「なるか馬鹿」
 男は一蹴する。少女はちょっと驚いたような顔をして、それから言葉だけで怒って見せた。
「何回馬鹿と言うのよ、ひどい人」
「……さ、できたぞ。どこへなりと行きやがれ」
 男は答えずに少女を突き放し、再び原稿用紙に向かう。
 中年の男の背中には汗が浮かんでいた。背中をじいっと見つめていた少女はやがて嬉しそうに、男の背中に抱き着いた。
「大丈夫よ、先生のことは猫だなんて思っていないから。愛しているわ」
「馬鹿野郎」
 男の好意を理解したうえでの所作だと知っていた。男は腕をそのままに小さくつぶやく。
「野郎じゃないのよ。ねえ、お礼くらいと思ったのに」
「いらねえよ。ほら、その安い『愛してる』はいいからどこでも行け」
「お利口さんね」
 小ばかにしたような口調で少女はつと手を離す。外はまた蝉が鳴きだしていた。
 ありがとうもないままに彼女は玄関に向かって歩き出す。きっとまた気が向いたらここに来るのだろう。
 男は問いかけた。
「……で、俺のことは猫じゃなけりゃ何なんだ」
「犬かしら。番犬」
 少女はにっこり笑うとアパートの部屋を後にする。
 金属の階段を下りるカンカンという足音がだんだんに遠ざかり、蝉の声だけが残っていた。

 ※腕(かいな)と同じ世界です。

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