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白昼夢

 進太郎には幼い頃、確かに曽祖父の幻影と遊んだ記憶がある。
「おおい、進ちゃんどこ行くんだよう」
「山だよ、山」
「え、進ちゃん、山はダメって言われてるよ」
 蝉のじゃあじゃあ鳴く夏の暑い盛りであった。
 進太郎の住んでいたのは山を背にした田園地帯で、青々とした苗は遠慮なく真っ青な空に伸びていた。カンカン照りに日差しが照りつけるなか真っ黒に日焼けした子供たちはめいめいに虫取り網をもって駆け回っている。
 真っ青な空には大きな入道雲のかかる夏休み。まだテレビゲームもやっと普及しはじめた頃で、あちこちで蝉取りやザリガニ釣りに興じる彼らを見かけることができた。
「俺は前も行ったし。何だ悟、怖いのか」
「だって……」
 進太郎のからかうような口調に、悟は口ごもる。
「大丈夫だって。悟は怖いなら帰って留守番してろよ」
 ニヤニヤ笑って意地悪を言う進太郎は五年生で一番体が大きく蝉取りや運動も得意だった。だから多少のわがままは友人らも強くとがめない。進太郎もそれを分かっていて、意地悪を言うのだった。
 進太郎が「山」と言ったのは二人のいる畦道からもっと上った場所にある山で、子供らが隠れて入っては迷子になるのものだから大人からきつく注意されている場所だった。進太郎は、その未開拓の山にはきっと面白い虫がたくさんいるだろうと睨んだのである。
「じゃあな。俺は行くから」
 太陽はそろそろ南中しようとしている頃だった。おろおろする悟をよそに、進太郎はにっと笑って駆け出した。
「あ、進ちゃんー、もう」
 元より進太郎には、名前の通り一人で突っ走るきらいがあった。悟の声に振り返りもせず、進太郎は山の方へと走っていく。歩幅は悟より大きいからどんどん離されていく。その背をじいっと見つめていた悟はしばらく佇んでいたがやがて大きなため息をついて追いかけ始めた。
 太陽はじりじりと少年たちを照らしていた。
 
 進太郎は学年で一番かけっこが早かったから、山へはすぐにたどり着いた。
 未開拓の山と言ったって、車のために古い砂利道くらいは敷いてあるから入ること自体はそう難しくない。ただ、進太郎の目的はその唯一の道から外れた林の中にあった。この、誰も居ないような林の中にお宝が眠っていないかと思ったのだ。
 カブトムシやクワガタはデパートで売ってはいたが親は買ってくれないし、田園地帯や公園の木にそういった虫はなかなかいない。ここで捕まえて無事戻ってきたら、今度は悟のような弱虫じゃなくて、話の分かる仲間と一緒に来ることもできる。
 進太郎は辺りに誰も居ないことを確認すると車用の砂利道からそれて、あっという間に林の中へ潜りこんだ。ぼうぼうに生えた草が短パンから伸びた足にチクチクするが、そんなのは構っていられなかった。林は鬱蒼と生い茂っていて空はあまり見えない。林の外より格段に涼しい。そして確かに、聞いたことのないようないろいろな虫の声がする。
 この辺の草をあらかた抜いて、秘密基地にするのもいいかもしれない。
「うわっ」
「わっ」
 そんなことを考えていたら、誰かとぶつかった。
 しまった、大人がいたのか。そう冷や汗を掻いた進太郎だったが、その声が自分の背丈から低い場所から発されたことに気づくとほっとして相手を見つめ、……そして眉をしかめた。
 妙な恰好のやつがいる。
「お前は? 何でここにいるんだ」
 その、妙な恰好の少年が先に口を開いた。
「俺? 進太郎。お前は?」
「……進太郎?」
 少年はそこで妙な顔をした。
「何だよ。お前は何だ」
「俺か? 俺は……」
 少し背の低い妙な少年は一瞬言い淀んだが、やがてニヤっと笑った。進太郎はその表情に、どうしてか見覚えがあるような気がした。
「俺は進ノ介って言うんだよ。似た名前だな。なあ、ちょっとついてこいよ」
「え? おい、待てって、俺は……」
 虫を取りに来たんだ。進ノ介と名乗った少年は有無を言わせず進太郎の手首をつかむと、大人のような強い力で林の奥へ進太郎を引っ張っていく。
「待てよ、おい、ちび!」
 悪態をついてみても力は全く緩まらない。半ばあきらめた進太郎は、もう一度進ノ介の恰好を見遣った。
 やっぱり変な奴だ。何でこいつ、お祭りでもないのに浴衣みたいな恰好をしているんだ。

 それでも何故か恐ろしい気は全くしなくて、進太郎は引きずられるままについていった。静かな林の中にも遠くからの蝉の声がこだましていた。
「……進ちゃあん、どこー?」
 蝉に交じり、悟の声が林に響いたのは、二人が消えてしばらくしてからのことだった。

 進ノ介は林の奥をずんずん進む。どこかに目的地があるようだが、どこへ行くんだと聞いても教えてくれない。
 勝手なやつだな、と進太郎が思っている内にぱっと林が開けて、涼しい風が吹いてきた。川についたと進太郎が気づいたのは、足もとにまとわりついていた草のちくちくがなくなったからだった。
 代わりに石のごろごろした、自然のままの川が目の前にあった。川幅は十五メートルあるかないかくらいだが、そこそこ深そうで対岸はまた森になっている。ところどころで顔を出した岩が夏の日に燦燦と照らされていた。いつもザリガニを探すどぶ川とは違って、林間学校で見たような、透き通ったきれいな川だった。ぽかんとする進太郎をよそに進ノ介は言う。
「おい進太郎、勝負するぞ」
「何のだよ。っていうかお前何なんだ、急に引っ張ってきて。誰だよ。変な格好だし」
 負けん気の強い進太郎は進ノ介の手を振り払い怒って見せる。そもそも自分はここに勝負をしに来たわけではなく、良いものがないか探しに来ただけなのだ。
 進ノ介は彼の質問も攻勢も笑って受け流した。
「いいじゃないか。俺が勝負したいんだ。何だ、負けるのが怖いか」
「何だと」
 進太郎は子供の頃から負けん気も強く、大体の相手に勝っていたからこんなことを言われるのはほとんど初めてだった。
 反射のようにそんなわけないだろと答えると、進ノ介は嬉しそうに笑った。
「じゃあ決まりだな。向こう岸に早く着いた方が勝ちだ」
 言うが早いか進ノ介は身に纏っていた格子柄の着物をするすると脱いだ。
 進太郎は目を丸くして、やがて大笑いする。
「お前! 何だよそれ! フンドシって!」
「何だお前、褌つけたことないのか? 子供だな!」
 進ノ介は例の笑顔で進太郎の言葉を受け流す。
 自分より背の低い奴に、そんなことを言われたのも初めてで、進太郎は言葉を失った。この狭い田舎の中とはいえ、進太郎はいつも学年で一番だったのだ。
「お前、絶対勝つからな」
 絶対こいつを負かしてやると思いながら、自分もTシャツを脱ぎ捨てて進太郎は短パン一枚になるのだった。

 川の水は思った以上に冷たく、日に焼かれた肌には心地いいくらいだった。
 学校のプールほどとは言わないが思った以上に深さもあり、木の下に潜れば魚の逃げ回るらしい姿もよく見えた。
 辺りではじーじーと蝉の鳴く声が響いている。しかし進太郎に、そんなものは目にも耳にも入らなかった。
「くそ……」
 進太郎はごろごろする岩の上に短パンで寝そべって、荒い息を吐いていた。
 じりじりと太陽が肌を焼いてくる。そろそろ中のパンツまで乾きそうだ。対岸の森から、褌一丁の少年の声がした。
「おーい。進太郎。俺は満足したけどよ。もう一回するか?」
「……」
 進太郎は答えない。そもそも、彼にとっては初めての負けだったから受け入れがたかった。それも三回やって三回とも負けだ。昔から何もしなくても運動は一番できたというのに。

 ほとんど水音を立てず泳いできたらしい進ノ介が、進太郎の顔を上からそっと覗き込んでくる。

「何だ、伸びちまったのか」
 この小さな体に負けたのかと思うと悔しくて、進太郎は顔を背けて叫んだ。
「かけっこだったら絶対負けねえからな!」
「へえ、足は速いのか」
「本当は、水泳だって一番だ、俺は、五年生の中で負けたことない」
「そうか、そうか」
 進ノ介はどこか満足そうに頷いていた。ちびのくせにやたら大人びた態度も進太郎の気に食わなかった。
 悔し紛れの進太郎はがばっと跳ねあがって「もう一勝負だ」と叫んだ。
 進ノ介は驚いた顔で進太郎を見ている。
「もう一回水泳か?」
「いいや。水泳じゃないぞ、虫取り勝負だ!」
 そうだ、そもそも自分はここにお宝を探しに来たんだ。もう昼だがこんなに広い林なのだから探せばカブトやクワガタだってきっとはいるだろう。もしかしたらもっと、見たことのないものだっているかもしれない。
 進太郎はすっかり元気を取り戻した。学年一番の自分が負けるはずがないのだ。進ノ介はそんな様子を呆気に取られて見ていたがやがてニッと笑うと、いいだろうと答えた。
 太陽はやや西に傾き始めていた。

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